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911なのに [今日の出来事]

911なのにまったく思い出すことなく当直業務。2つのよくわからない急変と病棟の患者の様子がおかしい、それから救急新患2件が同時にコールというスタート。PHSがなりつづけるなかで末梢がとれない人のCVの入れ替えをする人が1番の重症という状況だった。不可能のように思えることもやらないといけないときがある。それが医療という考えでいままで生きてきたからこそ耐えられたのかと思う。


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結婚ラッシュ [つれづれ]

 昨日の三浦さんの特集の中にトークショーの中に集団が生命の危機を感じたときにいじめが起こると言う話があったが、こんな時中途半端な付き合いをしている人たちはどのようにそれを考えるのだろうか? こんな時、今一緒にいる人は自分にとって大切な人なのか?本当にこれからもずっと一緒にいる人なのか?そういうことを改めて考えてみたかもしれない。そんなわけで自分の心の中に嘘をついていたことが発覚してはなればなれになってしまったりとか逆に家族というものにいかに自分が依存して依存されていたかを自覚したりするかもしれない。今までにも何度もパンデミックを世界は経験したが、世の中は変わらなかった。と言う人もいるが、少なくともこの間に人間関係のけじめというものに気づいた人も多くいて、そのことが人間の社会にとってはより強固なものであると言うことに気づいたかもしれない。言い換えると人間作った社会は、結果的に末端の人間のために存在すのはずなのであるが、その単位が家庭であることが社会を外からの攻撃に対して強固になるようにできているようにここ最近考えるようになった。


自分のことをぶっちゃけてしまえば、家庭とも言えないものが家庭でないことに気がついたのが311だったし、今の家庭が守るべきものであると気づいたのがこのコロナ禍であった。


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後輩たちよ、うまくやれよ


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紀伊國屋 [つれづれ]

紀伊国屋書店

th_IMG_4107.jpgたまたま紀伊國屋書店に寄ったら三浦瑠麗さんと写真家の初沢亜利さんの

対談をやっていたので聞いてから帰ることにした。

内容は自分が見てきた頃中とはまた違う視点で特に彼の写真を通してのコロナ禍。まぁこれは写真集の売り込みがメインテーマで意見が違ったとしてもそこは発展させることを避けて行われた感覚が見て取れるのだが、ツイッターなどでとても的を得た発言をしている三浦さんの実物を一度みてやろうと思い足を止めた。

 

自分の中に残ったことは大きく2つで、政治家たるもの1国民の日常の一つ一つをちゃんと取り入れた上で政治方針を個人のひとつひとつから紡ぎ出すべきだと言う意見それはもちろんそうなのだと思うのだが、最も大切な目標である人が死なないということを議論の中に入れないと、なんでも言えるのではないかとも思った。そして評論家が「あなたの」ことで政治を語るのか?とも言いたかった。

もうひとつはアメリカの話だと思うが、リベラルは家にこもり共和党が集まっているとして、集まっているものの方が強いのではないかと言う話。自分にはよくわからないがそうなのかもとも思う。彼女がいいたかったのは政策の正しさとか選挙のやり方とかではなく人間は本質的に集まって話をすることで強くなるそれは集団としての有り様ではなくただ本質的にヒトとはそういうものだ。と感じているようにとらえた。

 

そもそも自分が三浦さんに興味をもったのはつい最近のことで、北朝鮮のスパイが日本に潜んでいるといっただけでAmazonCMをおろされたことからなのだが、とかく強い女性、論が立つと言われている彼女だが、案外女性的で、また自分の視点を強く信じているひとなのだと思った。彼女が批判ののりしろはそういうところにもあるのかもしれないとも思った。

 

そのほか気になった表現

コロナという実験室

かわいそうな人に手を差し伸べのが21世紀のリベラルコロナで自分自身も対応できなくなった。

わたなべたつお氏の写真の撮り方。彼女をそう思っているからそれが写真に出る。

しっぽがいぬを振り回す。

自身があるとは自分がみたものを信頼していること

東京は無自覚なおごり

政治家は意見を変えるのはよいがそれに無自覚なのはよくない。

集団が生存自体にストレスを感じたときにいじめが起こる。

まるで戦時のように不要なものが排除されていく。はたして子供の遊び場は不要なのか?

テレビはひとを傷つける

ゼロリスク主義

強者ー弱者固定化した構造がまちがっている。

「変わった、変わっていく」と言いたいから言うヒトがいる。

 

 



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厚木勉強会 [今日話したこと]

  今日は研修医達とCOVID19の検査をどのようにすることが日本でコロナ感染の拡大を防止できるかという話をした。話の発端はLamp法がPCR検査と比べてどう違うか?から始まり、研修医の先生がPCRより感度も特異度も少し悪い。というので、では特異度が100%から1%落ちるとはどういうことなのか


?という論点で話を進めた。この話は、PCR検査は特異度が100%であるかのように語られているが、そう考えないと不都合なことがあるからそこから目を逸らしていたい、という現状を知ることにもつながった。


 


感度70%特異度99%とすると、例えば有病率1%として300万件のPCR検査をすると3万人の偽陽性者が出る。それでいて日本全体で無症状感染者が117万人ほどいることになる。また検査前確率を5%に上げて3万人の人に検査をすると119万人が結果の出ていない無症状感染者ということになる。


 


結論として日本のように有病率が低いと思われる国では検査をすればするほど偽陽性者も偽陰性者も増え、そして、かなりの検査をしても無症状感染者の数はそれほど変わりないということから、検査を無作為にすることは感染拡大に影響しないと考えるのが打倒ではないかとなった。


だとすると疑わしい人は休む、国民全員が気をつけると言う一番最初からあった方法に回帰するのがベターな方法であると言えるのではないか。


PCR検査を行って欲しい理由に職場がそれを欲するという問題があるが、会社や病院を休む基準は、専門委員会や組織が決めていくのが良いのではないかと思う。基準の項目の共通の項目を決めればデータを蓄積することができてデータとして残るものは無作為に検査をしてもその後も追跡すれば検査前確率をどんどん上げるような項目に再編成していくことができるのではないかと思う。


・その他


BCGの検査は条件を揃えて比較するデータがないので正確な付けられないのではないか


検査が最も客観的という考え方は、医療者側が作り出したものであるし医療者自身もそれを十分に理解してない人もいる。これは末端でもそしてシステムがつくった医療経済的な利害も関与していると思われる。


 


それにしも、しかし感染力は発症前2日が強いことが証明されているようだが、無症状PCR陽性者が感染力がない条件が発見できないものだろうか?


 


帰宅時に「そこまで言って委員会」をTverで観た。世田谷モデルとやらの話をしていた。この人達もかなり勉強してかなり正しくなっているのに関心した。


 


初めての愛車とタクちゃん即買い!


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宇宙でいちばんあかるい屋根

th_スクリーンショット 2020-09-07 19.50.53.jpg たまたまラジオでこの番組のこの映画の主演の女の子が出ていたのでそしてたまたま時間を勘違いして時間が余ったので映画を見てみた。


 


まず最初に思ったのは純くん年取ったなぁと言う感想だった。また、坂井マキも水野ミキも年取りすぎて誰かわからなかった。まぁ、役柄もあるだろうけど。内容は、どこにでもあるようななんてことない設定で特にドラマチックに物事が進むわけではないのだけれども不思議と退屈せずに最後まで見ることができた。1つは主演の女優の惹きつける力と、桃井かおりさんとの折り合いもあったであろう。話の筋道がシンプルで裏切らない伏線にもかかわらず、いくつか訴えかけるところはしっかりと訴えかけてくると思った。セリフもごく普通の言い回しなで、いいこと言わせよう感がないところに好感がもてて尚かつ、自然だからこそ物語のなかで輝いているように見えた。ファンタジーなのであろうが、ありふれた日常も、よく見ればいろんなものが詰まっているかもよという気持ちのさせられた。


この映画のテーマはなんだろうと考えて観るのではなく、ただぼんやりと物語の中のどこかの一員となったり、主人公の心のうごきをなぞったりするのがよいような気がする。


デイアンドナイトも観ていようかという気になった。



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医療はマスコミに牛耳られている(2) [つれづれ]

th_IMG_4034.jpg20世紀の終わりにに麻疹ワクチンを拒否する運動が起こったことを記憶している人も多いかと思う。あの後多くの子供達がNICUで治療を受けていた。そして多くの子供達が亡くなった。当時米国のベテラン小児科Dr.が日本で麻疹を初めて見たと言っていた。ある新聞のワクチンの副作用の報道が多くの人をワクチン拒否に駆り立てたわけだが、当然大部分の医療者は、ワクチンそのものの有害事象よりも感染によって失うものの方が圧倒的に多いことを指摘していた。

そもそも西洋医療とはそういうものである。すべからくベネフィットにはリスクが伴い、その兼ね合いで常に考えていくものなのだが、大きなサンプルサイズの有害事象を個人に当てはめ、その確率よりも事柄にフォーカスすることで簡単に人はそのベネフィットを見失う事ができる。多くの人がそれを理解していないところにつけいられているのだが、そうではなくマスコミは自分達の影響力を自覚し、理解しておくべきだろうと思う。

もちろん自然の摂理に従っている人を私は否定はしない。そういった自然主義の人と合理主義の人が共存しないといけないわけでそういった意味でワクチン問題は難しいのだが、少なくともその両方をいかに尊重しつつ、騙すのではなく導くことが大切だと考えている。


医療はマスコミに牛耳られている [つれづれ]

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もちろんすべてではないが、ある意味ではマスコミの力は医療の一つの側面である啓蒙を奪い取っている部分がある。


 


医療の仕事は大きく以下の3つに分けられる。1)わかっているものをマネージする事2)あるだろうものをコントロールすること。3)わからない物もしくはコントロールできないものをなんとかしようとするもの。えてしてこの3つ目を医者は嫌いである。2つ目は日本の社会としてうまく機能していないような気がする。1つ目はわかりやすく私にも患者にも受け入れられる。


 


よってやはり3つ目が医者は嫌いである。そしてこの部分でマスコミの介入が入ってくる入る余地があるのではないだろうか。


 


その具体的のひとつはが本当に病院に受診しなくてもいいかもしれない人の大量な受診である。この辺はあの意味決まりを作ることができない領域であり、なかなか誰も手を出そうとしないどころかむしろ軽症の人がたくさん病院にいてくれることで医療経済が成り立っている感があり、そういった意味では執拗に脅すマスコミと医療界は利害が一致しているかもしれない。


 


コロナ禍において風邪くらいでは受診しないことがマクロの目では明らかに国民にとって有益であったと思うし、そしてある意味医療者もその分意味の強いところに力を注げたような気がするが、果たして国民はもしくはマスコミはこれを認識し今後の教訓としていけるかどうかと言えば、これは疑問である。その証拠と言ってはなんだが現在コロナ心配者の受診が後を耐えない。



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紹介状について [つれづれ]

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紹介状の内容と言うものは当然のことではあるがその情報は患者さん個人のものである。よってある医師が持っているその患者のすべての情報はその患者が持ち運びができる権利を持っている。日本で病院を移りたいと言う時半数近くの患者さんが主治医にだまってやってくる。また紹介状をもらってきたとしても内容の薄いものであることが多い。それにはいくつか原因が考えられるが、日本の医療のnegativeな面が浮き彫りになる。すなわち1)診療にかける時間が非常に短いこと2)重要な情報、特に病歴に対する共有的知識があまり浸透していないこと。3)医療費が比較的安いこと4)患者の医学的知識があまりなくて良いと思われていること。5)パターナリズムが未だに存在すること。6)医師の裁量の幅が広いこと。などであろうか。


 


因みに私は、「貴重な症例をご紹介いただきありがとうございます」というセリフまわしがきらいである。患者にとってあなたに診てもらう方がベターを考えたのだから送ったのであって、あなたのためではない。もっと細かく言えば、忙しいだろうところに、仕事を増やしてしまって申し訳ない。あなたがこの患者さんに尽力くしてくれることを祈っている。


まだこの患者を人として知らないだろうし、合うかどうかわからないけれど、症例として興味をもってもらえることが、仕事が増えた分を幾分緩和してくれることと、そのモチベーションが患者にプラスに働くことを願っているよ。とこんなところだろうか。


また、ご紹介ありがとうございました。自体もあまり好きでない、総合診療やっていると特にありがたくない症例の方が多いし、興味あるないはたしかにあるけど、患者を選ぶのはできるかどうかだし、紹介はこちらで診る方がよいとの判断というだけであって、ものをあげたりもらったりではない。


しかしどこかにお礼を書くのが世の常のようなので、せめてもの抵抗で、最初にお世話になっていなくても、ありがとうございます。と書くようにしている。



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子育て反省文つづき [子育て日記]

多分一番大切なことは見る事、聞くことなのだろう。そして次に伝えること。

見ずに指導、聞かずに叱咤などはどんどん子供との距離が離れていき、「何考えているかわからん」などとほざきだす。反面子供は別に居場所を探し、それは悪さをしていなくてもいわゆる「愚れ」ということになる。むしろ悪さをするのは親に顔を自分に向けたいための信号なのかもしれない。

 

子供に対してのイメージを大人に迷惑かけないという概念から解放する。

女の子男の子のイメージに当てはめない。

自立した子とは?従順な子ではない。

 

子供たちのリーダーとは? 寄り添いが一番大切。その上で道標を示すことができる。

制限と自由から生じる責任を教える。指導ではない。

子供の感情をどっしりと受け入れる。

「なんで怒るの?怒るようなことじゃないでしょ?」はやはりダメかも。

大人の都合で発した言葉は子供に響かない。

 

おざなりほめ 人中心のほめでなくプロセスほめを

「絵上手だね!」がないとダメと思ってしまう。

チャレンジをやめる。ほめられることに終始する。

興味がほめられるかどうかに向いて実際の事象にむかなくなる。

褒める時は常に具体的に。。。

子供が言ってきたことにコメントするのではなく、共有する。

「かわいいね」もあんまり良くないみたい。

子供が見た目と自己肯定を結びつけてしまう。それで美の基準を保とうというプレッシャーを感じてしまう。

「自分で選べたね。」とか服を褒めたりするのが良いかも。

「上手だね」ではなく、良く観察してしっかり書けたねなど、、

「頭いいね」もイマイチかも、、毎日の積み重ねだねとかの方が良い。自信過剰になって努力しなくなるかも。

罰を与える叱り方

1)より攻撃的反発的な態度を生み出す。

2)力を使った問題解決法が正当化される

3)罰が反省を促さない

 

などがある。1)は罰を与えた親に怒りを感じより反発的となり、悪循環に陥る。

3)意識がいかに罰を逃れるかということに意識が集中するようになる。

 

などなどつれづれに反省文を書いてみた、そしたらその夜怪物に追われ、子供だけ助けて自分は死ぬ夢をみた。。


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ブログ再開だけど子育て日記に変貌

ブログ3年ぶりに再会だが、th_IMG_6565.jpg最近のこととなるとこうなってしまった。


 


子供が将来こまらいように、などというものすら、本当は、


親のエゴなのかもしれない。


自分 は、もし子供を しかる (思いあまっておこってしまっても)


時は、それが子供のため ならば許されるとしていた。


しかし.それすら実は、親の自己肯定であり、本当の意味で子供のためになんでならない。というこが想像できてないようである。


 


事件は.1年前の 8月からおきていた。


自分は、子供 が小学校へ入る、準備として、「管理」というものを教えようとしていた。


ふで箱に 入れるものを写真にとり、ラミネートにして目立つところに置いた。できる限り声をかけ、毎晩 眠る前 にさせ、習慣付けようと した。どこか で根気かつきて、でもそれは、おざなりに なっていた。


小学校に入り、子供が自分のもの を管理できな­い ことが明るみに出ることになった。


筆箱のものは次から次へとなくなり、そのことを本人はあまり重大なこととは感じていない様で、親たちが、促すのを避ける傾向が強く、「学校に置いてあるから大丈夫」という反応が多かった。家で必ず鞄の中身を出すことを提案しても、その意味が理解できない様であった。


 


父はこれはなんとかしないと、学校生活で皆より遅れをとるのではないか?また、整理整頓は生活の基本であり子供のうちにこれが身につけられたら、一生いろいろなところで、彼女の力になってくれるのではないかと考えた。実際学校で帰る前に筆箱をチェックするんだよと毎日の様に言っていた、「そんな時間はない。」などの返事が多く、実際忘れて、多くの鉛筆消しゴムをなくした。(学期末に少しはマシにはなっていたが)


 


自分などの今を見ると、放っておいて育つものではないのではないと思える。


そして今年。夏休みに入り、今なら徹底的に習慣化させられるチャンスと考えた。


たった一つのこと。使い終わったら、筆箱に入れる。こんなことがそれを監視する親の前でできないはずがないと考えていた。


とにかく、理屈抜きで簡単なことから始めて、習慣化することでその便利さを知り、のちにそれをするのが当たり前の人間になっていくのではないか。できることは少しずつ増やしていけば良いと考えていた。


ところが、鉛筆消しゴムの出しっ放しはよりひどくなった。


消しゴムがなんでここにあるの?「パパが置いたからでしょ」的な攻防が続けられた。


その前の食事中の姿勢を厳しく叱ることで矯正に成功した自分は、勢いに乗ってこちらもできる様な気になっていた。


その晩もひどく叱り、これからどうするのかを言わせ、涙ながらにこれからは使い終わったら、筆箱に入れます。と言った30分後に同じことをやらかす。と言うのが3日連続で展開された。


 


父は叱るところか激烈に怒っていた。どんなことをしても習慣化させないといけないと考えていた。学校が2週間後に始まってしまえばもう手出しできなくなる。そんな焦りがあった。


 


ついに10回できるまで話をしない。というとこまできた。


ここで習慣化に成功しなければ今までやってきたことが水の泡になってしまう。そんな心持


ちだった。


キチンとしている。整理整頓では親を超えた小学校高学年を想像した。


今なら親の力で矯正できると、感謝などされなくてよい。親の失敗は受け継いで欲しくない。


そんな気持ちだった。


発展心理学的には外発的動機というらしいが、それが本人にとって本当の意味を持つこととは思わないが、それがいつしか内発的動機に変わると信じたかったし、今でも信じたいと願っている。学校が始まり、手の届かないところで、内発的動機を待つなんてとてもできなかった。先生には自分のことができないのは2割しかいないと言われ、怒って矯正できるのは2年生までということを言われたのも背中を押したのであろう。


こうして書いてみると、やはり自分は間違っていなかったような気になってくる。


結局わが子がそうなれば良いのだから。


しかし、今冷静に考えてみて、そうなれば良いの「そう」はなんなのだろうか?


整理整頓ができて、勉強もキチンとできて、宿題を忘れない。身なりもいつもキチンとしている。


わが子ももう6歳も半ば。その様な子供になる様に生まれてきたのかどうかは、少しずつ表面化しつつあるのではないだろうか?それが親が良かれと思うものと一致しなくても仕方がない。そういうじきにもう差し掛かっているのだろうか?


もちろん「そういう」素因があるかもしれない。でもそれは親がイメージするものではなく、子供の内側から表面化してくるものではないのだろうか?


子供のそういう部分を見ずに立派な武器でも持たせてやる様な親心とやらで、やっていることは「操作」なのかもしれない。


食事中姿勢が良くなったのも実は親の前だけになるかもしれないし。


 


モンテッソーリ教育は罰も褒美も子供には必要のないものだという。


しかし学年が進むにつれて色々なものに時間の制約が出てくる。


毎日の授業、宿題。その様なもののレールに乗せておくのが親の務めなのではないかと思ったりもする。


それともまだまだそういう時期ではないのだろうか?


例えば、彼女はとても絵が上手な子だっったし、とても独創的な絵を割と小さい頃から描いていたように思う。


ところが夏休みの宿題で毎日絵日記を書く様になってから絵がつまらなくなった。描写力はあるが、独創性がなくなり、自分の内面から出てきたような絵ではなくなっているのである。


 


何かを与えないと発見できないこともあるし、やってみないと進歩しないこともある。


例えば、父が選んだ映画でも彼女らは喜んで観るし、ハマれば何度でも観る。


何かを与えたり、させたりすることもある種進歩の一つであるし、社会の枠に入れない時困るのは本人なんだろうなどと考えてしまう。そして枠に入っているからこそこの社会でキチンとした地位(キャリア)を形成し認められることで、生きて行くことができる。


そういう部分も確かにあるのではないだろうか?


 


発展心理学の本には「子供は親の愛情を失う恐怖から逃れるために行動する」的なことが書いてあったし、確かにそういう部分はあるがモンテッソーリは「愛情をエサにしてはならない」といい、それを条件付き接し方といい、まさしく自分はこれにより子供の行動をコントロールしようとしていた。


では無条件の接し方で、社会の順応できる人間に育っていってくれるのだろうか?


もしくは、具体的なことを取ればいつか内発的動機が作動し、自分の周りの整理整頓ができるようになるのだろうか?大人になってからもできない両親ともがここにいるというのに。


かたや母親は厳しく指導されてできなかったクチ。自分は全く放置されてできなかった。そして今子供たちの見本になろうと必死になっている。


見本がバッチリなってそれがとても楽しそうなら、そういう方向に道付けていけるのだろうか?


 


しかし少なくとも自分が注ぐ愛情の調節で子供をコントロールしようとするのは良くない気がする。奥さんはそれをしていない気がする。ただ、真っ直ぐに嫌なことはダメ、快適


なことはOKって感じではあるが。それでも愛情の出し惜しみを鞭に使ってはいないように見える。


その点自分は全面に出して、できるまで話をしない。などとのたまう始末。


 


子供は親の愛情を欲している。だから自分の行動が悪いとそれが得られないなら愛情を得るために良い行動をしようとする。


 


良い例が、ジャーナル(日記)描かないと絵本読まないよ。これでジャーナルは書くようになるが、子供はジャーナルを描かないと親の愛情が得られないと考えるよう。


子供はダメでも親だけは味方でいることで安心して育つことができる。だから愛情をエサにするような行為は子供の感情も不安定にしていくのではないだろうか・・


 


また条件付き接し方は、世代を通して受け継がれるらしい。これは恐ろしい。自分たちの代で止めなければならない。


では子供を放任すれば良いのか?自分は中学の時に全国でもトップクラスのスイミングスクールに通っていたが、それはもう恐ろしいくらいのスパルタで、いつもその指導法に疑問を持っていた。だが、小学生たちは無邪気に猛練習に耐え、日本でトップの選手が育った、ところが中学を過ぎる頃から急激に全国レベルから取り残されるようになる。このことから、強制は小学校までは通用するのか?などと考えていたが、、結局自らの動機を勝ち得たものが中学高校とトップになっていくから結果的には小学生で強制的に行っていた指導法が間違っていたことになる。


 


また、同時期のアメリカ人たちの練習の自由さに驚き、どうしてこんなに練習している自分たちが彼らに勝てないのかと絶望的な気持ちになったこともよく覚えている。


また勉学に関しても、小学校4年生頃までは親とともに強制的に勉強していたところが5年生頃から興味の対象が移り、+あまりうるさく言われなくなった(おそらく親が指導できなくなった)こともあり学力はみるみる低下したことも、関連した示唆があるように思う。


 


 


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