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映画アルゴを観た [感想]

以前姉になぜアメリカとイランは仲が悪いのか?と聞かれた時に明確に答えられなかった。あの、アメリカ大使館襲撃の事は知ってはいたが、どうしてあのようなことが起こったのかこそが本質だと思うからそう思ってしらべてみた。大抵の資料にはアメリカに亡命した末期がんのハーレビ大統領の引き渡しに応じないことが引き金のように書かれているが、それだけであれだけの怒りを放出出来るのかということになるともっと他に動力がいるのではないだろうか。ただ、ハーレビのやってきた事がそんなに国民を苦しめていたということなのだろうか?ホメイニ氏の指導だろうか?そして今、結局アメリカと敵対することで、国民は苦しんでいる。


にしてもおどろいたのは1979年11月と言えば自分は毎日泳いでいたのだが、その年の暮れにアメリカにいたということだ。しかもホームステイで、アメリカ大使館が占拠されている真っ最中だったのに全くその話題に触れた記憶がない。40年以上を経てそれを知るというのも、何とも不思議な気持ちになるものだ。またあの時ソ連のアフガニスタン進行に関しては日本でも大きな話題となっており、なによりよく年のオリンピックをボイコットする。というのが一番大きな関心ごとだったわけだが、今振り返ると自分自身はオリンピックに端にも棒にもかからない状態だったからそれほどみにつまされていなかったわけだが、一緒にアメリカへ合宿にいったなかには明らかに出場資格のある、簗瀬さんや池田さんそれから両角さんもいたのだった。彼らがどういう心境だったのかまったく考えもしなかったのはなんたることかな。と今になって思うのだった。


アルゴはスリルとサスペンス的に非常によくできた映画でこれが事実に基づいているということが事さら自分を興奮させた。もちろんアメリカ側からの視点であることは間違いなく、そこにハマってはいけないとは思う。2012年のイラン核合意の交渉の真っ最中でこの映画が作られたことにどういう意味があるのだろうかとも考えるが、個人的には、あの状況でイランの人々を刺激することの是非を考えるべきだったのではないかと思う。



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世田谷区は美人ぞろい [社会問題]

世田谷区で張り出されているポスターで気になったことがある。やたらと綺麗なお姉さんが多いということだ。明らかに人口比率にたいして高いのだ。まず。本当に綺麗なのかが気になった。3人ばかり偶然街で見かけたが、遠目ではあるがポスター写真がそれほど詐欺的には見えなかった。

ポスターに具体的な政治方針が書かれているものは少ないが、彼女らも例外ではなかった。そして自分の基準でのキレイなお姉さんはほぼ全員当選していた。とりあえず上位のヒトのツイッターをチェックしてみたが、政治関係の呟きは皆無で半年前からの選挙関係のツイート以前はすべてイベントなどの元の職業の内容なのである。そして2年ほど前かから政治とは関係のない呟きをある政党が何度もリツイートしている。

つまり政党は議席が欲しいのであって、なおかつあまり考えないひとが欲しい。そして、そういう人を当選させる力があるし、国民もそういう人を選ぶ。政治とは政治家個人の意見の総意で決まるものではなく、政党のある意味独裁(よく言えば統制)で行われるものらしい。あえて言わせてもらえるなら自分たちは愚かな民族だと思う。

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我々は病気をヒトジチに取られている。 [医療]

我々は病気をヒトジチに取られている。

81才の糖尿病、慢性心不全、コロナ感染後で当院でそれぞれ糖尿病科、循環器科、呼吸器科にかかっている方。また脊柱管狭窄症の診断で近医整形外科でフォローされている。

半年以上前から歩くと腰痛が帯状にあり休むと1分ほどで軽快するということを繰り返している。ここ最近は痛みが右則に限局してきているが、症状の起こり方や治り方は変わらない。また身体を捻った時にも同様の症状が出現する。

近医整形外科より総合内科あてに「脊柱管狭窄症の症状だと思われるが、内臓疾患を心配されるため精査をお願いします。」と紹介となった。

つまり、症状としては整形外科的であり問題ないというが、そしてそれが内蔵的な原因から発生しているとは考えにくいが、患者さんが心配していて、それを納得させられないのでなにか検査をしてあげてください。という紹介だ。

確かにこの方が、なにか癌の初期のものを持っていないと言うことは出来ない。では一体何をしらべたら良いのだろう?上下内視鏡、造影CTおよびPETまでやればまずまず完璧だろうか?マンモグラフィーも必要だろうか?なにもそこまでやれとは言っていない?だとしたら、「わかりました一番侵襲の少ない腹部超音波をしましよう。大丈夫でしたでも膵臓は完全には見えていませんでした。でよいだろうか?正直よくわからない。全ての高齢者が何を持っているかはわからない。せっかく病院まで行って、後で進行がんが見つかった時あの時検査していれば、というのも酷であるし、下手すると恨まれかねない。

つまり、日本の医療は、心配だから検査してくださいを寛容している医療なのだ。あるひとは高いお金を払って人間ドックを受けている。健康診断というものもあるが、寛容されているが故に、心配だから例えば胃が10年前から痛いから胃がんが怖いといっても、2ヶ月前に胃癌が発生した可能性というヒトジチがあるので検査をせざるを得ないのだ。

医師病院まで来ていただいた以上、何かあるかもしれないが、検査は不要です。とは言えないのだ。それがどんなに小さなな確率でもなのだ。

この飛行機はある一定の確率で落ちるかもしれないけど乗りますか?を医療者は言わない訳にはいかないのだ。特に日本人は小さな確率の心配には寛容でないように思うし、お上がそれをスパッと切り上げることが出来ないことはコロナで重々身にしみたように思う。

自分はよく大丈夫です。でも〜〜だったら〜〜してくださいね。をよく使うが、そんなグレーな対応が寛容されていることも感じてはいる。

いっそ全てのヒトに造影CTをする事にしておいて、適応のなさそうなヒトには合併症を強調したりして、また単純でも癌を発生させるかもなどといって、腹部エコーぐらいに落ち着いてもらおうか。などと考えるが、考えただけでもすごい手間である。心配なら人間ドックを受けて下さいこちらも保険が通ります。なら楽なんだけど、国がお金を払って全ての国民に造影検査を施行すれば、それはそれで合併症が問題になるだろう。いつもこのジレンマにモヤモヤさせられる自分であるが、自分だけではないはず。

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つぶやき。。。 2023/04/07 [つれづれ]


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ガッツポーズ? [医療]

ガッツポーズ?

医療はサイエンスとアートというが、それだけではない。エモーション的なコミュニケーション的な人間としての要素が当然絡んでくるものだ。医師がもつ技量はたんに技術的なことのみではなく、人格的なものが思ったより大きく影響するものだ。ものによってはそれがもっとも大きな要素になりうることもある。

では、患者さんに重篤な疾患があり、その診断がちょっと難しいもので、たとえば他の医師が当てられなかったものを診断したとき、心なのかでカッツポーツというものは常にある。この不思議な感情はなんだろうか?サイエンスがゆえのものだろうか?それてももっと泥臭いプライドや達成感がメインなのだろうか?だとすればこれはやはり人格の問題ではないだろうか?また、どんに小ちゃいガッツポーズすらそんな時おきないヒトっているのだろうか?もちろん、そんな感情は医療者間でもおくびにも出さず、診療を進めるのだから患者にとってもネガティブな面はないはず。そしてそのような感情が作り出す探究心が正確な診断の発掘に貢献する可能性さえある。

自分が学生の時、犬の胃切術を実習で行ったことがあった。開始前は涙で全く前が見えなくなっていたのに、手術が始まってお腹の内部だけが曝け出された後は嬉々として手術を行っていた自分に驚いたことがあるが、これもサイエンス頭と感情が別のものであるからだろうか?

よく考えてみれば似たような事例は他にもたくさんある。大きく分類すれば、前述の診断。それからいわゆる「おもしろい症例」そして「手技」がある。

医師は一般のヒトが驚くなかれ、「おもしろい症例」と普段から平気で口にしている。患者さんが聞いたらどう思うだろうか?という内容であるにも関わらずだ。またなぜかわからないが「手技」は患者さんのためということを差し置いても楽しい。不思議なものである。アートが技能という意味のみならば、医療はサイエンスとアートとなんと言えばよいだろうか?ゴロはわるいがヒューマニティとでも言っておこうか。もちろんよくも悪くも、ということになる。


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研修医の胸ぐら [臨床]

自分は一度だけ研修医の胸ぐらをつかんだことがある。 農薬を飲んで自殺した人の挿管直後に家族に頼まれて抜管したときだ。 借金もたくさんあって死にたがっていたから、死なせてあげて欲しいということだったが、事実は,(少なくとも本人の考えを)知ることはできなかった。下手したら他殺の可能性まである。そこで抜管とはなんと安直な判断だろうか。 自分がその後家族に話しをしたとき、あの研修医がよかったと、よってたかって罵倒された。 あのときの研修医の判断は間違いなく間違っているが、事前に相談されていたら、自分はどう対応しただろうか?もちろんもう一度家族と話したと思うがあの様子では間違いなく抜管してくれの一点張りだったであろう。 死のうとした(らしい)のは本人なのだから、そして死人に口なしだから、まるく収まるということだろうか?よいはずはない。 しかしよく思い出してみれば、1900年代の自分達の医療は同様のことが多く行われていた。今でこそ癌が見つかれば必ず本人に告知するのだが、以前は家族に本人に告知すべきかうかがっていたのである。本人は知らぬが仏で治療を受け、その裏で家族の病状を共有していた。本人が亡くなったあとで、医療者を恨んだり、訴えたり、もしも問題が起きるとすればそれは家族が起こすという理由はもちろん表にはでなかったし、本人が告知を乗り越えるまでの心理的フォローが難しかったことも1つの理由であろう。考えていればこのような非倫理的なことが公然と行われていた日本の医療、もしくは日本人の死生観の未熟な時代がほんの30年前にあったのは今のヒトにとっては驚きかもしれない。

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