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開業できない理由 [医療]

自分が30から40代の頃は、朝6時に病院へ行って週1から2回はそのまま夜働いて、翌日の夜9時まで働く。もちろんその翌日はいつも通り。土日もボランティア出勤。そういう状態をなぜか受け入れていたように思う受け入れていた。


この職種としてはわずかな当直料と一銭も出ない時間外勤務。それでも自分は患者のためにできることをしているのだという誇りを否定したくなかったのだろうと思う。


 


では、今はと言うと同じような病院に勤めてはいるが、以前のようなブラックではなく、ある程度の労働は守られているが、その理由は地域での病院の役割がある程度決まっているということと、他の内科医師たちがの持っているジェネラリズムのおかげだと思っている。昨日、日本の色は稚拙だと言う話をしたが、ならば実際どうなったら、日本の医療は確実に医療本来の役割を発揮することができるのであろうか? 国は勤務医の仕事の負担軽減のために、まずは患者は開業医を受診し、


必要であれば紹介と言う形をとりたいようだが、1番根本のところで、医療者の考え方が変わらない以上は、人々の病院思考は変わらないであろう。その根本とは検査至上主義である。基本的に、卒業教育は私の見た範囲では、客観的な事実を追い求めるような教育がされている。問診や身体所見は客観的とは見られず検査を選択するための手段としか捉えられていないようである。だとすれば、その考えは当然、一般市民にも伝わり、彼らも検査を求めるようになる。当然のことであろう。


開業医(町医者)一回行って話を聞いてもらう。より病院でその日のうちに採血結果が出るもしくは簡単にCTをとってもらう。その価値観で医療を受けるのである。しかも病院がかかりつけだといざという時に救急車を受け入れてもらえる。このことは逆を言えば、かかりつけでなければ救急車を受け入れてもらえないかもしれないということである。では、開業医は何をしているかと言うと、できるだけ手間のかからない薬、処方だけの人を扱い、ちょっとあやうそうと察すれば、病院に送るるのである。もちろん、みんながみんなそういうわけではないが、実際に送られてくる患者さんの紹介状は9割が診断名や診断の予想が書かれてないものである。大体がこんな薬を飲んでる人がこんな状態をおこしました。飲んでいる薬はこれです。ご高診お願いしますである。では自分が開業したらその流れを変えようとして成功するかと言われると難しいのかもしれない。検査もできないのに抱え込むと言う評判が立つかもしれない。何かひとつ見落としたら、致命的かもしれないし、自分の理想とするような診療では全く利益がでない気もする。というわけでなかなか開業できないでいる自分なのであった。


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※誕生日まで待てなかったらしい。


 


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インタビュー [医療]

今日高校の同級生がやっているYou tubeチャンネルの録画をしに武蔵小山あたりまで行った。あまりにも大きな商店街になんだか関心してしまった。ただ、結構フランチャイズが入っており、「お前もか」とも思った。

インタビューの内容はやはり「コロナ」がメインとなった。

 

正直みんなコロナに飽きてきた(疲れてきた)感があって、つまリ何か具体的なことについて議論したり批判したりするのにも飽きがきているのだろう。かくゆう自分もそうなのであるが、結局全てが相対的、バランス。そして受け入れの問題であることはなかなか理解されていない。そのあたりを強調したい。

 

医学的にこうするのがベスト(極端なことを言えば、誰も家をでずに誰にもあわなければ、感染自体が広がらないことになる。)エッセンシャルワーカーに限らず、社会を動かす人がどこまで許容できるかというのは医学的な正しさからどれくらい離れられるか?ということであり、それはむしろ科学ではなく人々の受け入れの問題なのだと思う。重症化が少なくなったとはいえ、感染を景気に亡くなっている人は確実にいる。そのことに社会がどれだけ目を背けられるかと言うこともできる。経済と命という全く別の次元のものを比べられないから目を背けるもしくは麻痺するしかないのである。

 

そして、それではどれくらい行動を緩めたらよいかという問題に国や専門家は具体的な提示をしていないように思う。国民は「言われた通りやったのに感染したじゃないか。」と言わない賢さを身につける必要があるし、政治家はそれに屈しない。つまり「わからないものはわからない。」「確率の小さいことを寛容する覚悟が必要である。」と開き直る必要があるのではないだろうか?

ワクチンに限らず、医療というものは常にリスクとベネフェットのトレードオフで決断される。ワクチン必要で不要というのは間違っている。と割り切れるものではなく、ワクチンを打つリスクとそのことによって得られる重症化からの回避を、感染する確率に加えて考えなければならない。実際ワクチンで亡くなる人もいる。しかしワクチンをうったために死ななくて済むかもしれない。どちらが勝っているかは数値化できるものではない。しかし自分の経験上入院して重症化するひとはほとんどすべてワクチンを打っていないヒトであった。

 

つまり年齢や基礎疾患などのリスクが増えるほどワクチンを打つベネフィットが増えていくわけで、その逆転するラインが50代くらいまで現在上がってきていると考えることができる。

 

また、コロナ時代になり、日本の医療の未熟な面が明るみにでたように思われる。

発熱という理由にならない理由で患者を拒否する施設が多くあったという事実である。医療者は常に仕事のキリがなく、どこかで自分の生活と分けないといけないわけだが、その境目がシステムとして決められ、他の医師に引き継がれるようにはなっていない。医療者は常に自分の仕事が終わらない恐怖のなかで仕事をしているので、そういった良心にたよってい医療が行われている反面、患者を断ることを罰するような規則はないし、何らかの免罪符(よく使われるのが満床)があれば、断ることは寛容されているのが事実である。

専門性という目に見えやすい部分では欧米に追いつきつつある日本の医療も患者を診るという基本的なところで、スピリットもシステムも未熟と言わざるを得ない。

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欠点 [つれづれ]

自分の欠点と言われると、なかなか認めたくないものあるわけで、何らかの意味をつけてどこかで自分を許してしまうとこはあるいみポジティブでも欠点だと思う。

例えば自分が水泳を始めたのは中学になってからである。他のチームメートたちは、幼稚園の頃からで、自分がどんなに努力しても、自分がトップになれないのは始めたのが遅かったからと、どこかで理由を後付けしていた。ういう癖は今もあって、今の自分の状況とやらに対して根拠もなく満足しているふりをしている姿もあるような気がする。

 

例えば子供の頃あんなに良かった記憶力が中学高校あたりから陰り、理解力は優れているが記憶力が足りない自分を正当化するために当時の受験勉強と言うものを否定し続けた感がある。自分は受験のための勉強は一切しない。それは時間の無駄であると本気で信じていた。だからそのような方法で良い学校に入っていた人も否定していたのかもしれない。

 

自分を伸ばすことに対して努力しつづけたから、そういう面では人より勝っているのかと言われると、そう思い込もうとしている自分がいて、実際に人と比べた事は無いかもしれない。

 

また現在の仕事でも自己満足的に、今の状況に満足している。認められているのか利用されているかはどちらもあるのだろうけれど、どこで働いてもまぁまぁちゃんと受け入れられているという今の医療界の価値観のキャリアとは全く別の形で成功しているのは、いろんな強運が重なったてのことであるという事実は否定することができない。

それにしても、自分自身がいろんな今の常識や習慣に惑わされることなく、ひたすら信じていることを続けてきたということが、自分を肯定唯一理由というのもまた事実なのである。

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旧統一教会の報道について [つれづれ]

 

旧統一教会についていろいろなことが追求されているが、それはそれで必要なら良いと思う。しかしその発端になったことが殺人という最悪の暴力であるということには強い違和感を持っている

自分は、新興宗教団体がどんなことをしているか知る由もない。いたいけな民をだまくらかして望外なお金をぶんどっているようだが、それより騙されたい人たちを幸せにしてあげているのか、そんな事は当人にしかわからないことではあるが、少なくとも良い宗教は、人々が破産するほどのお金を要求したりはしないだろう。

 

そういうことをずっと調査して発信していた人もいるはずなのだが、何らかの圧力によって抑えられていたということであろうか。それを暴くきっかけがよりによってテロリズムによるものであるというのは全くもって恥ずかしいことだと思う。

 

あのなんとかという男も、それほど主張したいことがあったのであれば、アラブの春を起こしたチュニジアの青年のように、焼身自殺でもすればよかったのじゃないかと本気で思う。そうすれば、もっと人々の関心は、同情も含めて、新興宗教と言うものそのもののあり方に疑問を投げかけたのではないかと思う。

 

今はただ与党を批判したい人たちの格好の理由付けとなっていることかマスコミとその視聴者の時間つぶしのネタになっているに過ぎないが、彼らは暴力が物事を動かすもしくは暴力でないと動かせないというこの事実を歴史に残すことで、また再びこのようなことが起こりうるというところまでは考えないのであろうか。そう考えると、この一連の馬渡的な騒動にじわじわと怒りを感じてしまうのだ。

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理不尽な患者 [医療]

久々に理不尽な患者さんにお会いした。主治医の外来に来られなかったため翌日自分の外来を受診。待たせたこともあるが最初から攻撃的。

まず、処方だけなのに待たせるとは何事とお怒り。

お会いして、状況を確認しようとすると、「お前は処方だけすればいいんだ。」

などと何かにつけて攻撃的。挙句の果てには「ちゃんとやってくれよ。」「いい加減なんだから。」などと説教が始まる。

色々病気を抱えて自暴自棄になっているようなだが、そのうえ主治医のことを快く思っていないようで、その不満が初めてあった自分に放出されたと思われるが、それにしても理不尽であることにはかわりなかった。

 

正直自分の患者でなく、こんな扱いをしてくる人を、なんとかしてあげようというほど人間はできておらず、でも今の状態はなんとかしないといけないのかもしれない。そうでないと、性格が悪いがためにキチンした医療サービスを受けられないということになる。自業自得の域に入るとは思うのだが、、、


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2022-10-27

7つの週間 実践ドリルをやってみようと思ったら、最初に自分の長所を延べよという書き込みをしないといけなくなった。

自分の長所をいうものはなにかと聞かれると、案外難しい。

真面目すぎず、ふざけすぎず?そんなのは長所とはいわない。

もしかすると大衆に流されないところがもっとも長所と言えるところかもしれない。もちろん流される(影響される)部分もある。でも少なくともだれか特定の人を集団での攻撃に加わったことはない。そしてそんな自分が好きっというところも長所といえば長所かもしれない。

大衆に流されない自分が好きであるために物事をひとより少し俯瞰してみることが出来てきた気もする。もっともっと深く物事を見ている人もいるのだろうが、実際の人間関係でそこまで話したりしないので、逆にまるで自分が特別な者のように感じてしまう。それは短所だけど、ポジティブ!という意味では長所となりうるかもしれない。

あとはこの仕事で学んだことだけれど、できるだけ相手の立場になって考えることを是としていることは、長所というより努力かもしれない。個がよければそれでよいとは言えず個が保たれている限りは公がよい方がよいという努力?もある意味長所といえるかもしれない。

しかしそうなると個が保たれていないとき自分はどうするのだろう?とすこし怖く感じることもあり、そのあたりが本当の自分なのかもしれない。


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アイアム柿本 [感想]

アイアム柿本

意味があるのか舞台はおくりびとと同じ酒田あたり。自分の言ったことがあるし、やっぱり鳥海山はいい。という安心かのような感覚から始まった。

 

柿本さんは決して自分が共鳴できるような人ではなく、ちょっと発達不全的な空気が読めない人。そういう47歳独身男性が、なんとか無縁仏の人をちゃんと見送ってあげたい。という話なんだけど、まさしく柿本さんはこの仕事にうってつけ。そして阿部サダヲさんでしかダメだと思わせる演技。

 

宇崎竜童の葬式にみんなが集まってきてくれたことや、松下さん演じる警察官が認めたことから柿本さんの“正しさ“が証明されたことにはなっているのだが、局長さんの言っていることもちゃんと筋が通っている。

そして柿本さんは正しいと信じるからとかでなく、ただそれがしたいから、、というのが原動力なのだ。

 

死後に死者は何を残すのか?それは関わった人に何が残っているかが全てである。では死者に対して何がしてあげられるのか?それは、生きている人の自己満足なのか?そんな案外難しい問いを投げかけているように感じた。


 

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ぐち [子育て日記]

長女の「いやなこと、わからないことはやらない」が止まらない。


まだ「いやだからやらない。」の方がまし。ダラダラと先延ばしにして


例えば文章を書くのに1時間かけて2行だったりする。それが考えていない自覚もないとところがまた致命的といえるかもしれない。


父は父で手も動かさずボーッしていた聞くと「考えているよ。」というのにいらだっている。どこがわからないの?にも答えられない。わからないものはもしくは嫌なことはやらせない方がよいということか?楽しくてやりたことだけやらせないと、伸びないというのであれば、お絵かきだとかアニメになってしまう。算数の計算のできるところはやっていても九九はいやだから覚えないで。よいというのだろうか?いつかは覚えるだろうということだとしても今の割り算にはまったくついて行けていないことにはどう考えればよいのだろうか?


 


というわけで楽しい勉強会のはずが泥沼化していくのであった。


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父が怒ってしまう時 [子育て日記]

父が怒ってしまうこと

何かをやろうと電話して提案して、それを納得した後なのに、すぐさま別のことをしていた時。

何度言っても姿勢が治らない時、でもこれは克服した感がある。

 

いくら言っても学校の宿題を持って帰ってこないこと。これに対してはあまり気にせず、本人が自分でそれが必要だと感じるようになるまで待つことにして、家は家で別の勉強を忘れているときにすると言う方針を立てるとだいぶおちついて対処できるようになった。

 

いろんなものが散らかっている中で、よく父親が子供のものを片付けているにもかかわらず、父のものを一つ発見したら、なんでこんなどこにあるのと強い口調で言われた時。しかしこれも普段親がそう言っていることの裏返しであろうと言う事はわかっている。

 

勉強時間をたったの5分にして、集中力を絶やさないようにしてやっているのに、その5分すら集中できず、何度うながしてももぼーっとしている時。結局わからない時は頑張って考えようとしないことが多いのは、子供として当然のこととわかってはいるのだが

 

いずれにしても、姉は親が何か言えば何とかなるという潜在的な意識が両親のほうにあるように思うし、逆に次女のほうは、それができないと言うあきらめのようなものがあり、実際次女のほうがずっと親との約束を守る。

対策はいろいろあるのだろうけど、教科書的には宿題しなさいとか勉強しなさいではなくて今日何時から何分やるの?宿題をやんなくていいの?ではなくて、今日も宿題あるんでしょ?位がいいのかもしれない。

 

そういえば娘の察しが極端に悪い時も、つい怒ってしまったりする。ついこないだ熱を出したので、コロナの検査をしようとひざまついて、座らせたらわざわざ父親の方ではなく、机の方に向きを変えてすわるから、つい「こっち」と大きな声を出してしまった。こんな瞬間のことをうまく対応できるようになりたいものだ。

 

ただ今まで長女は親の期待に応えられないためにできないのに、それを隠すというところからできない事を認めて、それを言えるようになってきた、親がそうなってきたのだと思うがそれはある意味進歩だと考えている。しかし親が諦めることで子供がそれが許されると言うのは何か違うような気もする。3年後にはできるようにとか1年後にはできるようにね。などとなるべく言うようにしているがそんなもんでいいのだろうか。思うに、常に子供にどんなことがあっても、何ができなくても子供の味方でいてあげること、それが大事なような気がする。


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目に見えないグループ [つれづれ]

おもしろいことに、目に見える団体も目に見えないグループもそのテリトリーを越えて誰かを標的にしておとしめることはない。

 

具体的に言えば、ある病棟から非常に嫌われて、常に冷たく対応されたとしても他の病棟では常に歓迎されたりすることは、多々あるのだ。おそらく同期の看護師などは仲がよく病棟を越えて、話しをすることは多々あるだろうし、その時の方が本音で話すであろうに、グループ全体の空気は他のグループに伝染することはまれのようなのである。

 

誰かのnetativeな話しを聞いてもそういう空気のないグループでその個人に限定され、そのうち消えてしまうのか、もしくは悪口的なものが実際の評価とは別の他のなにかをもしくは誰かの目的を達成するためのものとうすうすは感ずいていて、他のグループを巻き込む必要がないということなのだろうか?

 

そういう空気の中に入ったことのない自分はつねに第三者としてこのおもしろい現象を楽しむことが出来る。


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