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我々は病気をヒトジチに取られている。 [医療]

我々は病気をヒトジチに取られている。

81才の糖尿病、慢性心不全、コロナ感染後で当院でそれぞれ糖尿病科、循環器科、呼吸器科にかかっている方。また脊柱管狭窄症の診断で近医整形外科でフォローされている。

半年以上前から歩くと腰痛が帯状にあり休むと1分ほどで軽快するということを繰り返している。ここ最近は痛みが右則に限局してきているが、症状の起こり方や治り方は変わらない。また身体を捻った時にも同様の症状が出現する。

近医整形外科より総合内科あてに「脊柱管狭窄症の症状だと思われるが、内臓疾患を心配されるため精査をお願いします。」と紹介となった。

つまり、症状としては整形外科的であり問題ないというが、そしてそれが内蔵的な原因から発生しているとは考えにくいが、患者さんが心配していて、それを納得させられないのでなにか検査をしてあげてください。という紹介だ。

確かにこの方が、なにか癌の初期のものを持っていないと言うことは出来ない。では一体何をしらべたら良いのだろう?上下内視鏡、造影CTおよびPETまでやればまずまず完璧だろうか?マンモグラフィーも必要だろうか?なにもそこまでやれとは言っていない?だとしたら、「わかりました一番侵襲の少ない腹部超音波をしましよう。大丈夫でしたでも膵臓は完全には見えていませんでした。でよいだろうか?正直よくわからない。全ての高齢者が何を持っているかはわからない。せっかく病院まで行って、後で進行がんが見つかった時あの時検査していれば、というのも酷であるし、下手すると恨まれかねない。

つまり、日本の医療は、心配だから検査してくださいを寛容している医療なのだ。あるひとは高いお金を払って人間ドックを受けている。健康診断というものもあるが、寛容されているが故に、心配だから例えば胃が10年前から痛いから胃がんが怖いといっても、2ヶ月前に胃癌が発生した可能性というヒトジチがあるので検査をせざるを得ないのだ。

医師病院まで来ていただいた以上、何かあるかもしれないが、検査は不要です。とは言えないのだ。それがどんなに小さなな確率でもなのだ。

この飛行機はある一定の確率で落ちるかもしれないけど乗りますか?を医療者は言わない訳にはいかないのだ。特に日本人は小さな確率の心配には寛容でないように思うし、お上がそれをスパッと切り上げることが出来ないことはコロナで重々身にしみたように思う。

自分はよく大丈夫です。でも〜〜だったら〜〜してくださいね。をよく使うが、そんなグレーな対応が寛容されていることも感じてはいる。

いっそ全てのヒトに造影CTをする事にしておいて、適応のなさそうなヒトには合併症を強調したりして、また単純でも癌を発生させるかもなどといって、腹部エコーぐらいに落ち着いてもらおうか。などと考えるが、考えただけでもすごい手間である。心配なら人間ドックを受けて下さいこちらも保険が通ります。なら楽なんだけど、国がお金を払って全ての国民に造影検査を施行すれば、それはそれで合併症が問題になるだろう。いつもこのジレンマにモヤモヤさせられる自分であるが、自分だけではないはず。

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ガッツポーズ? [医療]

ガッツポーズ?

医療はサイエンスとアートというが、それだけではない。エモーション的なコミュニケーション的な人間としての要素が当然絡んでくるものだ。医師がもつ技量はたんに技術的なことのみではなく、人格的なものが思ったより大きく影響するものだ。ものによってはそれがもっとも大きな要素になりうることもある。

では、患者さんに重篤な疾患があり、その診断がちょっと難しいもので、たとえば他の医師が当てられなかったものを診断したとき、心なのかでカッツポーツというものは常にある。この不思議な感情はなんだろうか?サイエンスがゆえのものだろうか?それてももっと泥臭いプライドや達成感がメインなのだろうか?だとすればこれはやはり人格の問題ではないだろうか?また、どんに小ちゃいガッツポーズすらそんな時おきないヒトっているのだろうか?もちろん、そんな感情は医療者間でもおくびにも出さず、診療を進めるのだから患者にとってもネガティブな面はないはず。そしてそのような感情が作り出す探究心が正確な診断の発掘に貢献する可能性さえある。

自分が学生の時、犬の胃切術を実習で行ったことがあった。開始前は涙で全く前が見えなくなっていたのに、手術が始まってお腹の内部だけが曝け出された後は嬉々として手術を行っていた自分に驚いたことがあるが、これもサイエンス頭と感情が別のものであるからだろうか?

よく考えてみれば似たような事例は他にもたくさんある。大きく分類すれば、前述の診断。それからいわゆる「おもしろい症例」そして「手技」がある。

医師は一般のヒトが驚くなかれ、「おもしろい症例」と普段から平気で口にしている。患者さんが聞いたらどう思うだろうか?という内容であるにも関わらずだ。またなぜかわからないが「手技」は患者さんのためということを差し置いても楽しい。不思議なものである。アートが技能という意味のみならば、医療はサイエンスとアートとなんと言えばよいだろうか?ゴロはわるいがヒューマニティとでも言っておこうか。もちろんよくも悪くも、ということになる。


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開業医 VS 勤務医 [医療]

ことお金に関しては開業医の 方が優位と言われているが、実際はどうなのだろうか?

どうやら2009年までは中医協の役員に医師会の人が多く入っていた様だが、最近は病院勤務の 人が多いと聞いている。(実際は大学の教授が多いのだが)もう10年以上たつが、少しずつ病院勤務医の待遇が開業医に比べてよくなってきたということであろうか?

私自身医師の仕事が個人の人生の中で何が最も負担になるかと言えば、やはり時間外勤務であると考えている。以前は患者にとってなんの利益のない様な時間外勤務が無償で半ば強制的に課されていてそれが最も苦痛だった。 病院の文化にもよるのだろうが、いずれにしても患者は24時間休まないものであるし、主治医制というのも変わっていない(変われない)ところもまだまだ多いと思う。(実際主治医制はこと患者側、特に高齢者にとってはよい面の方が多いと思うのだが)主治医制をなんとかしない限り、働き方改革などは患者にマイナスにしかならないと考えている。

果たして開業医にとって患者は24時間休まないかといえば、そこは開業医の先生自身が決めることができるのではないだろうか?訪問医療をすることで、いつでも呼び出されるような体制を取れば収入は増えるだろうが、勤務医の主治医制をはるかに超える負担になりかねない。となるとグループ診療ということになる。

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自分自身は勤務医であることが最も安楽である。様々に変わる医療報酬制度にいちいち対応することもなく、ただただ患者の利益を考えればいいというほど楽なことはないと考えている。妻子が出来た今は自分の生活との駆け引きだけを心配すればよいのである。そういう意味では年をとってから 妻子を持ったことを自分の人生のラッキーな部分と受け止めているが、いつまで勤務医を続けられるかという不安があるのも事実である。


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受験勉強と医療の関係 [医療]

  • 英語に限らないかもしれないが、テストを作る場合、特に入学試験などの場合ヒトによって差がつくような問題を選ぶことになる。そう言うわけで英語は言語であるが、出題は例外が多くなる。例えば、「事件についてのエビデンスをかきあつめました。」を訳せよ。という問題は少なからずWe have scraped together evidences about the incident.と答えるヒトがいるかもしれない。間違いではあるが、実際の会話の中では大きな誤解は起きないであろう。このように例外を集めた「試験に出る」系の参考書を一生懸命勉強したひとはテストでも良い点が取れるのではないだろうか?そしてそのような勉強法しかやっていなかったひとは英語で会話が流暢にできるようになるだろうか?言語とは特に会話は考えなくても発生するほどまでに体に染み込ませることで初めて上達したと言えるものである。しかしその最も大切な能力をテストで測定することが出来ないということである。では医療に関してはどうだろうか?いつも思うのだが、専門的な技術に秀でたヒトも含めて、一番基本的なマニュアルを完全に体の中に染みつけるように自分のものにしているヒトがどれほどいるだろうか?そして基本的なマニュアルは「そんなものは初歩のもので研修医が手にするもの。」ように言われるのだ。そして普段から医療者が遭遇するような疾患をいかに診断治療することより、珍しい症例つまり例外が重宝され、学会などで発表されている。珍しければ珍しいほど価値があるかのような空気をこの仕事をしながらずっと感じて来たし、自分も確かに、心おどるところはある。しかしながらその“文化”が少し極端すぎるのではないかとずっと考えてきた。それは総合医のなかでも同じように存在し、臨床カンファレンスやドクターGなどというものに表出されているのである。ではどうしたらよいのか?各施設はもっともっと日頃の診療をシェアした方がよいと思う。実際現在、他施設との交流は間違いなく“めずらし症例”でないとなりたたないのであるが。特に日常診療の他施設とのシェアは評価をうみ、日常診療が改善されていくのではないだろうか?
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上級医同士は否定し合わないの法律 [医療]

上級医同士は否定し合わないの法律

日本の医療は西洋医学をベースにに発達して来たわけだが、必ずしもグローバルスタンダードにのっとって行使されているとは限らない。むしろ、職人的な個人の経験に基づく医療が優先され、そして対する異論からも守られている様に思える。

そもそも日本人はディスカッションというものが苦手という定説があるが、そのディスカッションの拠り所にするものを相対する人と人の間に置くか、それとも外に置くかであるが、儒教的もしくは、キャリア至上主義的な力関係で物事が決定される場面を多く見てきた。

最悪「鶴の一声」的な序列によって決められる事柄などはディスカッションで生まれたものとは言えないであろう。

これはやはり日本の医療が大学医局という単位をベースに成り立っていることが原因ではないだろうか?わたしが見てきた医局はすくなくとも表面上教授の言うことが絶対であり、また教授のみならず、下級医は上級医の言っていることにさからなったりしない。

自分は一時期大学の医局というものに属していたことがあったが、その時もう異質な存在となっており、上級医の言うことと別のことをすると、「もう教えない」と言われた。土曜日に患者を受け入れたことでそんなことをする必要はないと諭されたり、他科のヒトに意見をしたら酷く叱られたこともあった。また、学会での発表は何度も書き直しを要求された挙句、最後はまったく自分の意見は入っていないものが完成した。

つまり、意志決定に公平なディスカッションで決まらない中で、その意見のよりどころが自分自身にしかないのであれば、同じ立場の人通しの意見の食い違いが表にでることは致命的となりうる。ということは用意に想像がつく。

自分も毎朝前夜入院の患者を話し合うERカンファレンスの中で自分が尊敬する泌尿器科の先生が尿管結石について全例CTを撮れと研修医たちに言ったのを、否定したらそれいらい二度とカンファレンスに来てくれなかったという経験もある。また、同じ理由で、総合医を自分の下の立場と思っている専門医が総合医とディスカッションする訳がないのも理解できるであろう。ましてはエビデンスをベースにしなくても、医局の方法さえ踏襲することによりやっていけている専門医とは全く議論する土俵も方法もない訳なのだ。


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病院にわざわざ付属のクリニックがあったのはなぜ? [医療]

病院にわざわざ付属のクリニックがあるのはなぜ?

厚労省と医療者の間はまさに人参を与えるヒトと馬の関係が存在する。お役人は医療者を動かすのにお金を使う方法がもっとも効果的と思っているようであるし(実際そうなのであるが)医療者は医療者でそれにまんまと振り回されている。そのよい例が紹介料ボーナスである(資料)

国はドンドンと膨れ上がる日本の医療費をなんとか抑えるという命題がある。(そもそも高齢化を防げなかったところに端を発しているのではあるが)医療者は医療者で以前は薬価差益で左うちわだったものが規制され、生き残りに必死である。そして開業医は医師会の力が強いためか勤務医の異常なほどの勤務体系と開業医の裕福さが対照的になり対照的になるほど勤務医が開業していき、より勤務医の仕事が過酷になっていた。国はそういったバランスを補正するとともに、医療財政を切り詰めるという目的で、総合病院に直接患者がかかれない仕組みを模索した。

ひとつは資格をとった病院には紹介状なしでかかれなくしたが、それは失敗に終わり( 理由  )また、(    )年頃にクリニックから紹介された場合に補助金を出すというものだった、それは後ほど廃止されるため紹介状ボーナスと呼ばれたが、施設によっては、付属のクリニックをつくり勤務医をそこで働かせて、手続き上別の施設の実質は自施設からの紹介という形をとる病院が多発した。結局ボーナスは一時的なものであるからクリニックを別にした施設は再び統合して使いにくいままに使用せざるを得なくなったり、取り壊さざるを得なくなったり、結局は長い目でみることができなかったもののの典型的な結末となったのである。

余談ではあるが、いまは総合病院に初診で来院したひとは初診料とは別に7000円(選定療養費2016年より)などという保険外(自費)の料金が発生する。これも逆を言えばお金さえはらえば診てくれるってことになり、裕福なものが教育だけでなく健康獲得すらも優位となるということになり(自分が想像する)日本の保健医療の(概念)に反するのではないかと思う。そしてそのまま通えば、その後はその金額は必要なし、緊急時に断られる確率も減るということである。それを総合病院の医師は拒否することはできないし、する気もない。(このあたりは患者はなぜ大病院にかかりたがるのか?の問に通じる。)

大病院はむずかしい患者をしっかり診るところ、開業医はそうでもないひとを日常診るところなのではあるが、もちろんその中間の病院もあり、選定療養費の金額やそれをいただく基準がそのレベルを反映しているようである。ではその大病院を開業医は同じコンセンサスで動いているのだろうか?そのコンセンサスの基盤となるスタンダードはあるのだろうか?医師たちはそのスタンダードを学んでいるのだろうか?開業医は開業するためのトレーニングを受けているのだろうか?開業医の武器はおのずと病歴や身体所見となるのだが、それらのトレーニングを受けているのだろうか?そして勤務はその価値を理解しているのだろうか?そのつながりが患者から見えない限り、患者は施設の整っている病院でかかりたいと思うのは当然であろう。スタンダードの構築、教育。資格、協調そのあたりがしっかりしない限り、日本は病院のみの診療しか支持されないのではないだろうか?



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医師-看護師関係のみょう [医療]

医師と看護師の関係は、もしかするとWin-Winとなっていないのではないだろうか?そしてそれば主治医感が強いほどその傾向があるように思われる。つまり、患者への思いが医師の方が濃い場合、圧倒的にマンパワーの少ない医師が自分が留守(オフ)の時に患者を預けて、医療及びそれ以外のことをお願いするような立場なのだ。看護は医療ではないだからわたしたちは医療の手伝いをしない。などという考えた方もあり、点滴や投薬や採血は医療なのにやってあげているという気持ちが存在したりしなかったりである。まるで、まったく子育てに関与しない父親とその妻の関係に似ているのである。それで妻はできる限り夫に自分の仕事の負担を分け与えようとする。それからイクメンなどという言葉が生まれている、実際専業主婦なのであれば、夫が育休など取れるはずもなく、夫の育児参加はそれぞれの家庭で決められることであっって、世間の風潮で絶対量が決まるわけではない。医師看護師関係も実際に医師が1人だったり、グループであったり、患者の容体によるのでその場その場で、適切に考えるべきなのであろうが、都合で考える人も中にはいて、1対1の夫婦のように考えると医師の仕事量が計り知れなくなる。実際それに似たような状態が世紀末から新世紀にかけて行われていた。常識で十分判断できるような内容や、翌日で十分間に合うような内容の確認が帰宅してからかかってくることなど日常茶飯事だったのは、今考えるとそういうことなのだろう。医師と看護師は協力して患者の健康を促進する。という考えの人もいれば、先ほどのべたように、看護師は医師の仕事を押し付けられていると考える人もいた。ということである。そいういう考え方の人が看護師トップにたつようになっていたように思う。ただ、いくつも病院を経験して感じたのは、医師看護師の仕事内容がはっきりと分断されている病院の方が関係がギスギスしているのである。グレイゾーンを譲り合ったり押しつけあったりするとこを緩和するために、少なくとも表面上、というか必要に迫られて関係をよくしているようである。これは子供のいない夫婦の方が仲が良い説(自分)と良く似ていると思う。

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本日のパラダイムシフト [医療]

今日の連続パラダイムシフトは、1)80才の動けなくなった患者さんが来ています。昨日救急車を息子さんが呼んだんですが、救急隊が、生死に関わるものではないのでと、搬送しなかったそうです・「えーつ!?救急隊も強くなったねーコロナの影響かな?」→息子さん到着、本人息子とふたり暮らし、るいそう著明で褥瘡もある状態「これは、ネグレクトじゃないの?娘だったらよかったけど、息子ひとりじゃ仕事もあるしねー。」→息子さんから話しを聞く2日前までは出歩いていた。知人に家で救急車を呼んだが、本人が乗車拒否で運べなかった。その後急激にわるくなって、動けなくなり、話しもできなくなったので、昨夜息子さんが救急車を呼んだ。救急隊は、1日前拒否されたという申し送りがあったので、本人が望まない限り搬送できないということで拒否。→結局救急隊が断ったにも理由があり、ネグレクトでもなかった。

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診断書 [医療]

ずっと以前のことだが、軽度のパーキンソン病の人を前医から引き継いだのだが、ずっと何年も診断書を書いてもらって仕事を休み続けて給料をもらっていたのだが、簡単な軽作業なら可能と記載したら、その前医のとこまで言ってその先生からえらく叱られた。ということがあった。患者は時々、仕事できないので、診断書を書いてくださいとくる。実際仕事の内容も知らないし、できるかどうかなんて判断できない。というよりできるだろ!と言いたい。自分がコロナ以前はインフルエンザで高熱でも仕事を休まなかったのは別としても、こうやって元気に病院に来ているのだから少しくらい仕事できるだろうと思う。別に飛脚をやっているわけでもなかろうと思うのだが、実際職場側が診断を書いてもらってきたら休職してもいいよ。と言っているというのが殺し文句で、その人と話したわけではないが、しょうがないので1ヶ月おきに診断書を適当な疾患名をつけて書いてあげることが多い。今回などは産業医が書いてもらえと言ってわざわざ病院まで来ている(ほぼそれが目的)のだが、産業医こそ仕事ができるかどうか判断できるのではないだろうかと思うが、その権利がないのであれば何のための産業医だろうかと思う。しかも途中で診断名を変えたら、もっと長く休職できるときた(笑)医師が休む必要があるからと言えば文句言えないというのが逆に会社側の気持ちなのかもしれないが、逆にそんなに休みたいのなら診断書書いてもらってこい。みたいな形式的かつ「本当は仕事できるんじゃないの?」と言えないところから来ている行動なのかもしれない。では、この変な感じどうしたら良いのだろうか?簡単なのはハイハイって書くこと。難しいのは「仕事これくらいならできるんじゃない?」的なアドバイスで逃れる?職場の休職に医師の診断書は不要職場の人と本人で話し合ってどこまで仕事ができるか決めてください。と言いたい。医師から本当に休んだ方が良いと切り出さない限り「書いてくれ」と言っちゃいけない。としてほしい!病院にお金が入るから良いというものではない。
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総合が育てるもの [医療]

総合診療と言うものを考えるときに、パワーバランスなしには考えることができない。

なぜなら、その総合診療が担うテリトリーは常に流動的で、はっきりした定義を作ることができないからで、下手すると誰かの都合に良いように決められる可能性がある。日本の医師は、基本的に高学歴でプライドが高い。臨床医として目指すものは難しいことができるようになり、それによって得られる名誉のようなものが大きいように思う。そのように自分を育ててくれるような患者を好む傾向があるという事実は否定することができない。

 

総合医は、そういう専門医の手から漏れてくるものフォローするという意味でとても大切な存在ではあるが、パワーバランスが調整されていない以上、異常なほどに需要に供給が大きく上回ってしまうケースも多い。各自の裁量で、患者選択が決められている以上、パワーに則した仕事の供給が行われるとは限らないのであるへというわけでへ。(というより、カテゴリーで決める以外の患者を振り分ける方法がないのである9

私は若い頃、50歳になるまでは不条理と言えるほどの激しい仕事を背負いながら生きてきたのだ。そしてそれはこれからも改善される事は無いであろう。だが、自分は自分が見ることができる患者は、断らないと言う信念を守りきったことを誇りに思っている。そしてその誇りは、仕事の半分がボランティアであったことも誇りの高さをより上げているのである。

 

根本にあるのは自分がどのような医師になるという医師像がなく、ただただこの職業が何のためにあるかという原則に従うことができたからかもしれない。それで50歳になるまで自分はあまり周囲の人のことを考慮する余裕もなく、結婚も失敗に終わったのであるが、今新たに子供ができて自分のもう一つの人生と言うものを守ろうとしているわけだが、どこかで自分の原則から離れることにならないかという不安も抱えながら仕事をしているように思う。この年になって家庭ができて、自分を守らないと自分の人生を生きられないというそんな甘えが仕事の上でできてきているのも事実であろう。今になって思うのは、総合診療という仕事は、その仕事が他の人がやりたくないものであったりする。その内容に制限がない分、自分の成長のみならず、目の前の患者の為という純粋な原則というものを、より難しい中で選択するというある意味自己満足を得られる職業かもしれない。自分の中のプライドにも負けず、見返りも求めず、必要なものは際限なく、受け入れることができたら、本当の意味で自分自身が成長できるような気もする。

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