SSブログ

患者中心とは? [臨床]

DKAと診断がついたヒトに血液培養をとるのは常識的な事だと考えており、severな状況だから予備力がないという意味も含めて抗生剤も使用するだろう。特にフォーカスが見当たらないのであれば、すべてのことを考えてメロペネム+バンコマイシンだろうか?しかし脱水で腎機能が悪いことが多いのでバンコマイシンは使いにくいと考えるのだろうか?それどころかメロペネムも腎機能が脱水がとけて軽快するにつれて用量を調整しないといけないので肝代謝のCTRXを選択するだろうか?それからメロペネムやバンコマイシンは使用するごとに申請が必要である。(申請異常のおとがめはないのだが、逆に正当性も評価されない)日本の医療は正解は相対的なものであることが多いので、正解はその場で形成されるのだが、間違いなくメロペンバンコなどややこしいことをするよりCTRXを2g流しておけば、大体の言い訳にもなるし、大体大丈夫なのである。もしショックなどになったらその時広域をいけばよいのかもしれない。はてさてどちらが患者のためなのだろうか?

th_IMG_0763.jpg

 



nice!(1)  コメント(0) 

患者中心とは? [臨床]

脱水で入院したが家族が手続きをしてくれないために退院先が決まらない寝たきりの患者がいる。ほとんど言葉を発することなく動くことも出来ないヒトだ。施設はこれ以上みきれないということで送ってきた感あり、帰宅先を探すための入院というニュアンスの入院だった。

入院後70日程立った時、初めて不穏なので不穏指示に従ってリスパダール(液)を投与したと、記事があったが、当直の研修医をコールして自分のだした0.5包を1.0包に変更して出したらしい。0.5が効果ないということを経験した訳でもない。その後カルテのメモに「指示を1.0に変えてもよろしいか?」とあったので「直接相談してください」と答えた。少ない量で効果があるならそれにこしたことはないと考える自分とどうせ投与するならば、ちゃんと効いた方がよいという、考え方の違いなのかと思っていた。

カンファレンスの時にもその話題はでなかったのだが、その後に他の看護師からコールがあってリスパダール(液)は1.0包で出されたことなどありませんん。だから1.0包にしてください。という内容だった。少なくて効くならそれでいいのでは?といってもむしろ高圧的。0.5で出すのは間違っているという確固たる決まりでもあるかのような口ぶりだった。「そもそも本当に不穏だったのか?不眠なだけではないのか?そんなものに向精神薬を出すこと自体が問題では?」という言葉をのみこみながらよくよく話しをきくと「一度シリンジですわないといけないので大変なのです。」という意見。落ち着かずに暴れているようなヒトにタブレットなど飲めないから液体を出したという発想の自分は大体でいいよというと「それば出来ません。」と最後はけんか腰であった。

しょうがないのでリスパダールは錠剤にして半錠だめなら1Tでその後も1T、そして副作用の強い薬を避ける目的でベルソムラを定期でだすことにした。実際眠れないのは70日目で初めてだったのだが、いたしかたない。おそらく看護師軍団は私たちの仕事を守るためにお願いしますと言うわけでないという自分の個人的な感情もあるが、液のリスパダールを半包なんて完全に間違った処方であるとほとんどのヒトが意見統一しているなかで、自分の意見などとおるはずもなく、自分にできる最大限の抵抗であった。確かに自分達は自分達の仕事と患者の利益の両方を天秤にかけながら仕事をしている部分がある。自分達の利益を優先することは「戦争賛成」と高らかに叫ぶ人に似ていてキライだ。

th_IMG_0663.jpg

 


nice!(1)  コメント(0) 

阿部さん射殺 [つれづれ]

阿部さんが射殺された。仕事中であったがとんでもないことを同時代に経験した気分だった。少し日にちが経って冷静になってくると、警備のあまりの甘さ、というかバカさと言った方がいい。素人がみてもちゃんとしてたら防げたのではないかと思えるような内容だった。そう考えると、おそらく自分くらいしか考えないとは思うが自殺説なんかもでてくる。もしそういう指令が下っていたとしてももっと上手く穴を作ればよかっとになどと妄想したりしている。阿部さん的には批判されまくって、ある意味いいときに辞められて、よかったような気もするし、ちょっと狙って辞めたようにも見えたし、つまりもう批判されたくないという気持ちから同様の方法でいい時に去ることも考えたかもしれない。実際、悪く言うヒトは辞めたときよりももっと少なくなり、よかった部分がよりスポットライトが当たっている。人間の習性的にそういうところがあるのは事実。いずれにしてもよい形で歴史に名を残したのではないだろうか。少しうらやましい気さえする。

th_IMG_0666.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

aha体験? [子育て日記]

長女のピアノ熱が落ちてきた。「練習しないの?」と聞けば、するのだけど、先生に言われたことや自分のできなかったことは忘れていて、また怒られるというをここ2週間続けている。目的意識を持って練習していないのはわかっていたので、そうなるだろうとは思っていたが、本人に任せるという放置だったかもしれない。ことピアノに限ってはいわゆる自主性というのが芽生えてきたかと期待していたのだが、どうやら思っていたほど楽しいばかりではなく飽きてきたようだ。で、父親としてはやっと自主性というものが芽生え始めていたところを積んでしまいたくないので、今日の食事の時間、「どう思っている?」と問いかけてみた、5分10分だんまりだったけど、辛抱強く待ってみた。いつもならここで母親のチャチャがはいりそこに子供が逃げ込むのだが、その隙を与えないように自分の考えを待つことにした。しまいに泣き出し、怒っているー怒られている関係のようになってしまっていたが、辛抱づよく「おまえがどう思っているか?感じているかを知りたい。」としたら、最後にはどじこもった殻をやぶいて。「もっと簡単だと思っていたのに、めんどくさくなってきた。」と泣いた。初めて怒られるかもしれない壁を越えたような気がした。親も「そうかめんどくさくなっていたか、なのに一人での練習はつらかったね。これからは一緒についててあげようね。」となった。いつもは思考静止したまま時間が経つのをまって、終わったとたん鼻歌というパターンだったが、ちょっと違う感触を今日は持つことが出来た。これですべてがうまくいくわけではない。こんなふうな距離を意識することを忘れないようにしようと心に決めた日であった。

th_IMG_0643.jpg

 


nice!(1)  コメント(0) 

大事件 [今日の出来事]

なんとも恐ろしい事件が起こってしまった。陰謀説やマスコミに責任があるだのと大きな波紋を呼んでいる。歴史的事件であることに代わりがないし、なくなった阿部総理のご家族やご友人にはなんと申し上げてよいのかわからないが、実際もっと恐ろしい事件は一杯日本でもおきている。2年前のマリスト学園の襲撃事件や池袋や秋葉原の無差別殺人。日本がどうかなってしまったかと言えばおかしなヒトは一定数いるということだろう。

にしても、だれもが知っているヒトが公の場所で多くのひとがビデオ撮影しているなかで銃で撃たれるという事件はかなりのインパクトといろんなところに影響を及ぼすであろう。タカ派のヒトはそれみろ、平和ぼけなどしているからだ。武器を持って戦えというだろうし、民主主義は終わった。などというヒトもいる。リベラルが強いヒトはそれみたことかと言うかもしれない。何にせよすでに一人の人の死を利用し始めているヒトがいるのは阿部さんも死んでも死にきれないだろう。せめてそれが国をよい方向へ導くような影響を与えるのであれば、なんて草場の影で唇を噛んでいるかもしれない。

th_IMG_0635.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

標準と裁量 [医療]

高齢の初めての頭痛の人。右の後頭部で2度目の発作的な頭痛。現在は1/10まで軽快している。今何ともない空気を発散していて、対症療法で帰せそうな雰囲気が漂っている。解釈モデルはなんか怖い病気だったらいや。「大丈夫です薬出しときます。悪化したらいらしてください。」でおそらく済んだだろう。身体所見をとるとFNテストとかどうもはっきりしない。tandem gaitもできない。前者は右目が失明していることから説明できるし後者は70超えた人でスラスラする人はいない。そう考えると、画像をする理由がなくなってしまうのだが自分としては高齢の初発の頭痛というだけでもはや画像導入は決まっているだった。それでどちらかというと、その理由を正当化するための問診だったり身体初見だったりするので、当然導入となるわけだ。ここが医療費をそのまま請求するような国であれば、また話は別なのだが、ここは日本。over examinationが許容されているどころか、下手すると推奨されている国である、そしてそのことが、もしかすると非常に効率悪くではあるが誰かを救っているかもしれなく、正当化に一役買っているのである。しかし基準がスタンダライズされていない中ではそれがやり過ぎだったかすらわからないかもしれない。若い(もちろん自分も若いが)先生にとって何が大切かというとできる限り標準的な考えに近いところで自分の基準を決める努力を怠らないということである。日本という環境で、可能性が低くても検査ができたとしてもそれはしなくても良いかもしれないという自分の基準の中で決行するのであって、もしそこで陽性者が出たら自分の考え自体を標準とすり合わせて、変更しないといけないかもしれない。検査の適応を自分の中で決めるという思考は患者のためであり自分の診断力の向上のためでもある。そして、それを怠ることは検査の侵襲とコストを無視することである。もし小さな可能性さえ寛容されない世界なのであればその上で決行すれば良いだけのことだ。

159CB94B-2A5F-4EB0-AC75-9CF007AC7858.jpeg


nice!(1)  コメント(0) 

やはり,まちがっている [子育て日記]

 



やはり 自分はまちがっていたようだ.子供にとって,身の回りの整理整頓も,命令されたら自分のことではなくなってしまうのだ.それは親が望むことであって自分がしなければならないことではない。How many times do I have to tell you.などと英語で言えば和んでましかな?なんて思っていた昨日の自分を恥じたい。自分のなかでは躾だけは理屈抜きで親が子供にたたき込むものだと定義していたけれど、いつのまにか勉強も躾のひとつに分類していたようで、それは成績というちいさな固定概念の価値観にとらわれすぎていたように思う。子供が子供自身で決めていく。それは、促したからといって出来るわけでもなく、掘っておいてできるものでもない。はいっていくことで一緒にみつけてあげればよいのだ。



きょうはそんな風に思えた日であった。


th_IMG_0596.jpg


 


nice!(1)  コメント(0) 

なかなか無理 [子育て日記]

娘達も成長し、少しずつ自分の思い描くような良妻賢母的大人とは全く違う方向へ進んでいっているような気がする。嫌なことは出来る限り時間稼ぎする。すきなことすきなことがあればさっきの約束を忘れる。子供だからこんなものかとも思うが、自分の子供時代のことは全然思い出せないし、思い出してもそんなんじゃなかった子としてしか思い出せないし、たまたま紛れ込んだ他の子の字の整ったのをみたりしてしまうと、なかなか今のあの子らのそのままを受け入れることができない。教科書的にはありのままを受け入れ、よいところを見つけてそこを伸ばして、というところなのだろが、するべき約束や忘れ物整理整頓、なにひとつまともに出来ていない様子を受け入れるのは非常に難しい。せめて学校の小テストの点だけでもよい点をと思っても、もしくはよい点を取れなくても、復習をちゃんとやらせようと思っても、そのテストの範囲も結果も学校に忘れてくる始末なのだ。いちおう常に優秀側にいた自分としては、なぜ自分がそうだったかが思い出せないし、自分の親が自分にしたこと以上のことを子供に注いでいるつもりなのだが、にしても形になるものが基準になってくるのはおかしいのかもしれないが、だとしたら結果として残ってくるもの以外はなにをどう評価できるのであろうか?利己主義で、エンパシーがなく、刹那的なやつらを。。。そういう意味では自分もそうだったが、、

 


nice!(1)  コメント(0) 

人工中絶 [つれづれ]

人工中絶の是非がアメリカで話題になっている。もちろん是ということはなく、深い業の中でなされるものなのだが、偽善的に言えば子供が不幸になる確率が高いのならその前に、という考え方はあると思う。母体の安全のためということもあるだろう.

では生命をというならば、その他人間以外の生命も同じではないだろうか?

ましてや人類はまだまだ殺し相いを肯定しているのである。

ひとはそんなに、生命の中で特別な存在なのだろうか?自分の中では“死“とはその人がなくなった時にその人と通じ合った部分がどれだけ残された人に残るかというところがその人が生きた証を意味作り、それはつまりその人の死を意味するように思う。バッタとは通じ合っていないのでカエルに食べられてしまったとしても、人間の中で広義の死には至らないのである。しかし、カエルに食べられるのと人が意味なく殺すのとは別で、それはただの人の傲でしかなく、愚かな行為である。たから人工中絶は後者、という意味でやはり愚かな行為なのだろう。しかももっとも心身ともに、打撃をうけるのは女性でありそういう意味でも、大きなあやまちには違いないだろう。いずれにしても個人の問題。多くの事象がからみあることなので一概に是非を決めることはできないと思う。

th_IMG_0572.jpg



nice!(1)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。