SSブログ

特別な媒体 [つれづれ]

人生の成功とは何か?たくさん儲けていい車に乗って別荘を持ったりすることが成功ということなのであれば、事業するにしても労働にしても、お金を得るために行うということになる。果たしてそんな人生が幸せとかどうかわからないが、少なくとも働いている間は幸せではないということになる。そもそも人がなんのために生きるかなど分かろうとも思わないが、最近は人間は思考の媒体でしかないのではと考えるようになってきた。そう考えると、これまでの人々の思考をいかに受け継ぎ、次世代に渡すかということが人生の目標となり、そこに自身の存在などそれほど気負うものではないという気がしてくる。ただ、関わり合いというものがあるから、その中で生まれるものもあり、引き継がれるものもある。その間柄の中ではやはり個は特別なものなのだ。そうでなければただの媒体ではやはりつまらない。今日はちょっとだけ哲学的だった。


th_IMG_9217.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

誰のための? [つれづれ]

1口で治療といっても誰のためにやるのかはその時々で違ったりする。もちろん本人のための治療がメインとして考えられているのではあるが、高齢者でコミニケーションが取れないような場合は家族のための治療であったり、認知症がひどくてBPSDがひどい場合は他の医療者にのための治療であったりもする。自分が時々疑問に思うのは誰も幸せにならな治療をみるときである。医師が自分のためにしているのだろうか、。こういう場合はこういう治療をしないという杓子定木的な思考から来ているのか、他の医療者からの批判を恐れるが故になのか、もっと純粋にこれが自分のやるべき仕事だと思っているからなのか。しかしご本人ご家族が望まないような治療をただ続けることのコストの問題や労働の問題それはきちんと考えるべきなのではないかと思う。

th_IMG_9212.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

つゆ子とらい子のお話 [子育て日記]

学校のクラスの中にAグループとBグループがいたとする。この2つのグループはとても仲が悪い.この2つのグループは今度行われるドッチボール大会の対戦相手になることになった。何人か集まった数がそのままチームになり、たくさん人を集めたチームの方が強いということになる。Aチームはドッジボールの練習を各自好きな時に好きなだけしてもよいことにしました。Bチームは必ず集まって練習をするのですが、みんなの実力が同じくらいでないといけないので、ひとりで勝手に練習をしてはいけない決まりでした。


最初は10人対10人で両チーム同じくらいの人数でしたが、Bチームの中の3人グループがAチームに入りました。Bチームのリーダーであるつゆ子はすごく怒りましたが、3人は無視しました。泣き虫のらい子もAチームに入りたくなりました、なぜならAチームは自由に自分の力を伸ばせるからです。らい子は怖れながらも、つゆ子にAチームに入りたいと言いました。つゆ子は君だけ自由に練習していいからこのチームにいていいよ。といいました。らい子は少しつゆ子が少し怖かったのでBチームにとどまることにしました。大会まであと一週間になったとき、らい子はやっぱりAチームがよいかなとAチームのリーダーであるあめ子に相談に行きました。アメ子は迷っているらい子をみて、よく考えて3日後に決心がきまったら教えて。と言いました。二日経ったとき、つゆ子がらい子を呼び出しました。そして「Aチームに入ったら殴るからな!」と脅しました。らい子は本当につゆ子のことがいやになってAチームに入ろうとアメ子のところまでいこうとしたら、つゆ子がらい子の鞄をもって待ち伏せていました。「この鞄を川に捨ててほしくなかったらAチームにいくな」といいました。つゆ子の目は本気でした、むしろ狂気でした。らい子は「ぜったいいや」といいました。つゆ子はらい子の鞄を川に放り投げました。それには学校に行くための証明書が入っており、らい子はもう学校に行かれなくなってしまいました。


(子供達は憤慨してました)


th_IMG_9205.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

俺たち平和ボケ [つれづれ]

ウクライナでは大変なことが起こっているようだ。

日本人の多くが平和ボケと揶揄されているようだが、それは現実的な国が作った人工的なものでそれはファンタジーかもしれない。でもそういう前提で考え直しても自分はむしろ平和ボケを誇りに思っている。それどころか世界中が平和ボケすればよいのにとさえ思っている。これこそが平和ボケという非現実的ものであるのはわかっている。でもそういう平和ボケ的な国が1つくらいあってもいいし、非難せずむしろたたえることが、世の中を少しでもイマジンの世界に近づけることにはならないだろうか?そして声高らかに日本の核武装をなどというヒトは少なくともそれが悲しいことであることくらいは認識して欲しい。

 

 

では現実問題はどうなのだろう?ウクライナはもともとソビエト社会主義共和国連邦の一員。この国は14世紀ころからすでにロシアだったのではないか。ソ連が崩壊した時に独立したようだが、そのソビエト崩壊のきっかけをつくったのもウクライナだった。たしかウクライナが核を持たないことを約束しさせた代償として侵略しない約束をしたのではなかったろうか?人間というものはこの「怒らないから言ってごらん。」的なずるさが、力があれば人殺しまでも許されるという未成熟な生き物なのだろうか?そしてまた世界的な見方はウクライナがNATO 加入を望んでいたとしてもそれは全員ではなくロシア派の人もいて、結局加入は先送りされていた。そしてもともとソビエトだったこともあり、むしろ内線的にとらえられているのではないだろうか?もしくはそうとらえたいのだろうか?だから「許されない」と声にだすけれど自分の国民の命をかけるまでには決意できないし、また下手すると世界大戦のように広がっていくことを避けるという逃げ口も用意しているのだろう。

しかしこの心理が本当であれば、中国台湾もそう見られるのではないだろうか?台湾にもっとも心理的に近いのは日本である。中国が台湾進出したときに世界が内戦ととらえたとしても日本人にはとてもそうは映らないだろう。アメリカが今回と同様の動きをしたとききっと日本も同様に経過をみることになりそうだが、それでいいのか?とも思えるし、勢いづいて80年前のお返しとばかりに沖縄辺りに攻め込んできたら大変である。逆にアメリカが見過ごせないと兵をだしたら、日本は指をくわえて見ているわけにもいかなくなる。なんとも現実をみれば、この世はきな臭い世界である。

th_IMG_9198.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

2022-02-24

民主主義は多くの人々の意識が反映されるというが、その多くはなにかに強く影響をうけたりもする。日本のような多民族国家だとそれがかなり画一化してしまい。へたすると悪い方に進んでしまったりする。コロナ騒ぎで右往左往して、直進できないのはこのためだろう。

 

ではかといって今中国やロシアはどうかというと人間権力を与えられすぎると、どうやらよくないようだし、よくないヒトが権力を持ちたがるようなのだ。だからむしろ国のために決断できるような人が独裁者になる確率の方が低いのでないだろうか?

 

もちろん反対側の目で見ているからそう見える部分はあるのかもしれないが、やはり戦争はいけない。ヒトが死ぬことによって自分の欲求を満たしている事典でこの独裁者はダメという事実だけは揺るがないのではないだろうか?どんな大義名分があろうとも。

th_スクリーンショット 2022-02-24 15.54.08.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

交通安全 [子育て日記]

子供を育てる上で最も大切なことは「安全」だと考えている。何かがあってダメになったらその時はその時と思えた時期があった。でないと自分達がここまで以上に注意することができないという線引きができなかったからだ。自分などは全くと言っていいほど放任されていて、8才の時に交通事故に会ったのだが、逆にそれがあったから今まで生き延びてきたのかもしれない。だからといって、一度くらい事故にあって学べなどとは決して思えない。なぜならそれで取り返しがつかなくなるかもしれないからだ。子供の交通事故に対しそのよな線引きはどこにできるのだろうか?交通事故などで子供を失うわけには絶対にいかない。

だから徹底的に安全は方法を教えてからでないと一人で表になんて出せない。というのはいわゆる過保護だろうか?

過保護は英語ではスポイルといってダメにするというニュアンスが強いが、東京のような車がドンドン往来するところで、自由に歩くこと自体が常軌を逸していると自分は運転者として思う。では厳しく厳しくしつけたとして、それがネガティブに働くことで親の見ていないところでは逆に自由にしてしまったら元も子もない。いままでゲーム感覚でそれらを教えてきたが、心から信じることができるまで一緒にあちこち歩くしかないのかもしれない。今日は駅までの道をビデオにとって明日みんなで見る予定にした。できるだけ口を出さず、子供が自分で危険を見つけてくれればよいのだが。

th_スクリーンショット 2022-02-23 16.21.12.jpg

 

nice!(0)  コメント(0) 

冬期オリンピックが終わった [つれづれ]

北京の冬季オリンピックが終わった。

印象に残っているシーンは羽生選手のショートプログラムの失敗とクワトロアクセル。自分はジャンプはアクセルしかわからないが、とにかくギリギリの綱渡りのような演技にはヒヤヒヤすると同時にい成功したときは選手の1/100くらいはスカッとさせてもらっている。彼が中国で人気なのは、中国の国でははく人々とはどこかでつながれる道が残されているような気がしてうれしい。

スカッとするといえば、ワリエワの団体でのフリー演技は圧巻だった。いまだかつてみたこともないような切れと安定度だった。ドーピングのことはかわいそうだったが、こればっかりは本人は悪くなくても国が悪いのだからしょうがない。出場できたこと自体がおかしいのでは?平野歩夢選手の演技はすごかった。最後の演技のところで切れてしまったNHKの無能さに呆れたのとは逆に(比べる事がおかしい)2回目演技の採点の低さのモヤモヤのなかでの完璧な演技は常人ではなく、間違いなく金メダルにふさわしい人物ということだ。ところでジャンプだが、どこまで服で稼げるか的な競争になっているのはいかがなものだろうか?測定方法であとから失格という結末ほどアスリートが可愛そうなことはない。彼らが競技のみに集中できるようなしくみを作って欲しいものだ。

スキー回転で相手妨害で失格になったヒトがいたが、審判員は大多数相手側の国のヒトだったらしい。そういう優位性を優位として活用するのが西洋人のやり方か?などと思ってしまう。日本人ならどうしただろう。もし同様の判定をしたとしたら決してうやむやにはされなかったかもしれない。

もっともスポーツっぽくないのがカーリング。チームが日本選抜でないところがもっともユニーク。フジサワさんのおかげで、美人じゃないといけないのオーラまで出てしまっている。彼女らの次に続くチームはいるのだろうか?

開会式は見なかったけど、閉会式の競技場下一面LEDは本当に美しかった。これぞオリンピックの祭典という演出もすばらしかったと思う。中央集権の力というもののよい部分か知らないが、感情的には賛同はしていない自分もいる。残念ながら日本のヤツは足の引っ張り合いや損得勘定、忖度でお粗末な感じになってしまった。

th_IMG_9179.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

ただ健康のためのはずなのに [つれづれ]

たんなる健康維持のために始めたランニングだが、一年もやっていると少しずつ、同業者に出会うようになってくる。ただ走るだけなのに、へんなシンパシーを感じるのはちゃんと頑張っている人の特権だろう。

ここでやはり人は共存的に生きる動物という言葉がよみがえる。ただ健康のために、ただ一人で走るだけ。と思っていたモノが、誰々がこれくらい走っているとか、自分もモチベーションを刺激してくるのを感じる。これもまた自分自身を叱咤するよりも心地がよいものだ。

th_IMG_9183.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

友の死 [つれづれ]

人はいずれ死ぬ。その人間にはどうしようもできない現実を現実として受け止めることができずに人は祈るのかもしれない。祈ってもどうにもならないことがわかっているのに祈らざるを得ないのかもしれない。

 

限られた存在の中で一体何があったのか、何の意味があったのか。歳をとって関わり合いの深い人をなくし始めるとその関わり合いこそがいかに大切なものでそれをないがしろにしていた自分に気づく。

 

その人が自分にとってプラスとかマイナスとか考えずに付き合えた人のかけがえに気づかず、目の前の命の責任に心を奪われるつづけていたが、今考えるとあれはある種、逃避的な行為だったのかもしれない。

 

しかもその事は大切にすればよかったとかではなくその存在自体をありがたく思うだけでよかったのに、それすらなかったのだ。

 

 


nice!(0)  コメント(0) 

ヒトは相互依存的にしか存在し得ない事に異存はない [子育て日記]

P-PCバランス昨日家族読書会で渋沢栄一の論語と算盤の一節をよんで子供達に説明した。それはしゃかりきに自分だけがとお金を稼ぐと、他人のものまで奪わないと満足できなくなる。かといってモチベーションのない働き方でみんながなまけると国がダメになってしまうという話しだった。そしてあさ通勤途中久しぶりに聞いた「7つの習慣」はP-PCバランスの話しだった。これは期せずして全く同じ内容の話しである。

コーヴィさんはP( production)を金の卵PC(production capability)をそれを産むガチョウにたとえ、より広い範囲で具体的に説明している。

 

自分は、長女にはひとり勉強してできるようになるよりもみんなで教え合う方がよりかしこくなる。みんなで宿題やらないって決めたら一人が怒られることはなくなるけど、みんなでダメになっていくよね。なんて話しをした。

 

次女には音を出しながら逃げるかくれんぼで彼女は音を出さずに最後まで生き残った話しをした。ひとり生き残っても楽しくないと伝えたかったのだが、より楽しかった、ルールなどなかった。自分ひとりでなくもう一人いた。などと、詭弁的に返してくる。ちょっとがっかりの父であった。

ヒトは相互依存的にしか存在し得ない事に異存はないが、P-PCバランスは結局自分のためにヒトを育てるという理論と自分はとらえている。そこには愛とか友情というものは含まれていないようである。けんかして気まずくなって、最初に声をかけてたのにの何かがふわっと溶け出すようなあの感覚はP-PC理論とは別の次元のものではないかと思う。

 

でも次女もしくは人間の性悪とまでは言わないが、性自己中心的な部分は明らかに存在し、それをもって社会で生きていくために大切な方法であることには違いない。これを自分は子供達に教えていくべきなのか少し迷っている。

th_IMG_9160.jpg

 



nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。