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18の頃 [思い出]

自分が彼女に出会ったのは18才の春、彼女が21才だった。 長崎浦上天主堂のそばの駅で、聞いた僕に彼女は快く道案内、というより道連れになってくれた。その時は「また会う約束などすることもなく、それじゃ」と別れたのだが、たまたま彼女の勤務先と自分の実家が近かったため、その後の物語が始まってしまったのだ。後にも先にも自分の生涯で知らないヒトに声をかけて知り合いになるという唯一の経験だった。 自分と彼女の最初の共通点は”歌”だった。そのころ流行っていた、といってもファッション的というよりはしんしんと本音を歌い上げたさだまさしや中島みゆきなどが、彼女を知る入り口となった。 自分はあの頃表面的な笑いや、流行を是とする人々の中で、人間の芯まで重なり合えるような付き合いはなく、それがかなえられないのは自分が少し特別な人間だからなのかと思っていた。自分を真に理解出来るヒトを探していたのだと思う。 ちょうど浪人に入り、家族は受験生はそれ以外のことをしてはならない的な意味で距離を置いていたさみしさも手伝ったのか、自分は激しく彼女を求めた。 彼女が自分からすれば宇宙人のように全く別のものであることに気付いていてもそれをやめなかったのは、むしろ自分の理解出来ないものを求めようとしたのか、はたまた手に入れられないものを追うという本能によるものなのか?いずれにしても自分はあのときひどく傷つき、苦しんでいた。今になって思えば苦しみたい症候群とでもいうのだろうか?それは「愛」などと呼んでいいものかすら不明、結果的にはそんな崇高なものではないなどと認めたくなかった時期もあったのだが、今ではそんなものが必ず存在しながらも実態のないもので、定義できないものであることというところに落ち着いている。 彼女は自分と出会う半年ほど前に付き合っていた人を事故で亡くしていた。自分は激しいアイディアリストであったので、彼を愛し、そして自分も愛するという彼女の言葉の矛盾がどうしても受け入れられなかった。 「愛する人が亡くなった時は、自殺しなけりゃあいけません。」という中原中也の詩はそれでも業が深ければ、、と続く。 その「業」というものをどうやって受け入れられるのはわからず、理解しようとして苦しんだり、憎んだりした。 「星が綺麗なのは知っている、でも命が背中を押すから歩くしかない。」そんな内容の詩を書き留めた覚えがある。自分は「好きなものを好きと無条件に思える人は幸せ。なぜそれが好きなのか理由を探す者は、つらくて、どうしようもないアイディアリストなのだ。」という小林秀雄の言葉や、「女を論理的に説明しようとすることが論理的でない。」というSWANというマンガの一説などにすがるように生きていた。 逆に彼女は美しいことに憧れていたのだと思う。刹那的な、日によって感じるものが根本の考えさえも変えてしまう矛盾さえ美しいものとしたかった、いやそう感じていたのだろう。そんな彼女と、夜空に永遠に輝く星こそを本当に美しいと思う自分が平穏な生活が送れるはずはなかったのだ。 しかしいま考えると彼女との出会いがあってこその、今の自分でだからこそ、ここまで生きてこられたし、こうやってあの3年間が自分の人生のなかで大きな存在として今も生き続けているのだ。 彼女と別れてからも、まるで復讐するかのように自分をおとしめるような行為を続けた。しかしその方法は、ただ自分の持っている業を許すことにはなってもヒトを受け入れることとは別のことであったように思う。 そして長い年月とともに、自分と違うものを受け入れられなくても許すから、許すなんておこがましい自分の醜さを序々に認められるようになってきたように思う。それは「老い?」であるかもしれないが「成長」と受け止めたいと思う。

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流浪の月 [感想]

この物語はいくつかの切り口で見ることができると思う.

世間のルールにはまることができない人たちへの応援歌もしくは正当化が物語の本筋にあるように思う。もしかすると作者の主張かもしれない。

またある意味では肉体関係が作れないからこその愛の形と言う見方もできるかもしれない。作者はこれを愛と恋とか呼びたくないのかもしれないが私からすればいわゆる「愛」愛ある。もしこれをいびつな愛と言うのならば、すべての愛がいびつなのではないだろうか?

原作を読んで映画を見たくないと思った。

あまりにも更紗や文の人物像が自分の中に出来上がってしまっていたからだ。でも映画に出てくるサラサも文も小説の更紗と文とは別の人間たちとして成立していたそして別の人間たちではあるがその中に宿る感情はむしろ小説を知っていたからこそよく伝わってくるためより楽しめたような気がする。反面初見の人にはどううつるのだろうか?

などと考えてしまった。あれだけ長い物語の中の彼らの心情を短い時間でうまく表現したものだなと思う。

 

 

ここからネタバレ

小説に何度もでてくる事実と真実はが違うというはがゆさ悔しさは映画の中では緩和されていたが、二人だけの世界が終着点であることがやはりあまえだと思うのは、自分がいわゆる常識人でしかないことのあらわれなのだろうか。

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