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身の振り方 [医療]

子供達の学費が厳しい話をするとほぼ妻は開業の話をもち出す。

自分の中では子供との年令差的に、かなり高令まで働く

必要があることはわかっている。しかし、今開業かと言われれば踏み切れない理由はいくつかある。そして、根源にある前庭には子供のために今の時間やお金を費やすことは厭わないがつ、自分の信念ゃ人生の方向を犠牲にすることはないというものがある。

それ以外の理由としてひとつは検査、特にCTを中心に回っている病院の周辺で開業医にできることが見えてこないということがある。病歴ゃ身体所見かどうのという能書きは紹介した時点でリセットされてしまうだろうし、それ以前の「におい」や要望くらいで送ることになるかもしれない。つまり、検査以前のコンセンサスはなにもないのである。もっとわかりやすく言うと、CTを撮ったところから診断が始まる思考から考えるに、それがない開業医にはできることは、別の次元のことのみと考えざるを得ないし、それ以外の技術は認められないので、意味をなさなくなるなる危険があるということである。病院内でも同じことで物的証拠を提示して初めて道筋が立てられるのだ。それ以前の振り分けは看護師の問診と同等と取られるし、超高令者などは実際役に立たないことも多い。

もうひとつの理由は、現事点で今の病院でなにもなし得ていないということである。それどころかその具体的目標すたっていないということである。

三っ目は自分が何に対して何をすべきか?ということ自体の踏ん切りがついていないことである。若い医師たちに技術を教えるにしても、前述したような思考の世界の中で自分の伝えたいことは反旗的なものになりうるわけで、なかなかグループの外側からの声としてとどがないのである。医療社会に対しては、ACPから逃れすぎているしくみが高令者とその家族と急性期病院の医師たちを不幸にしていることにも何かできるこがないかと思っている。開業医と急性期病院そして患者の思考との関係もこのままではよくないと考えている。自分が自分の人生を歩む以外に何ができるだろうか?究際のところこれが明確にならない限り今後の自分の身の振り方は決まうないのだろう。

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2022-06-24

「入院させてほしい。」と迫られると、させない方向に感情が動くのを感じるが、これはどういう心理なのだろう?ひとつは、言いなりになりたくない=支配されたくないという感情。言葉的には悪い感情のようではあるが、「入院させろ、検査をしろ。」という人は基本的に、医療を自分の了見で利用しようとしているからで、これは医療者側が、主導権をとつておくべきというところで正当化できるのではないか。つまり,患者側の知識でよかれと思うことと、医療側の考える健康もしくは幸わせが食い違うということであるが、この根源にあるものが患者自身の中心にあるのかそれともそれぞれの都合にあるのかが正当性の根拠になると自分は考えている。

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2022-06-15

最近次女の母親に対する好き好きアピールが身に余るほどオーバーである。ある種の違和感を感じていたが、その違和感を感じていたのだが、そのひとつの答えを導いてみた。母親はどちらかというと次女かわいがりで、時々疎外感すら感じているところが気になっていたけど、最近長女にも見た目の愛情を注ぐようになってきたので、次女が焦ってオーバーアピールになっているという攻防の構図なのである。そう考えると納得できた。それだけのことならば、ほっておいたらよい。きっと子供とはそういうもので、むしろこの方が正常なのだろう。

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ピアノ発表会ならぬ [子育て日記]

昨日は子供のピアノの先生主催の生徒達の発表会。長女は始めたばかりなので歌だけだったのだが、こともあろうに自分達までかり出された。みんなのなかに隠れた中で自己満足的に歌えばいいのだが、大した問題でもないのだが、先生の生徒達のうまさにはほとほと感心させられた。

なかでも年中?あたりのこどもが半年でABCの自分の知らない曲を堂々と弾いていたのには驚かされた。自分もABCをやっていたはずなのだが、そこまで進んでいなかったということなのだ。

音楽は技術習得だけではなく、ヒトの和も作る。などという使い古された言い回しをしたくなるような会であった。

 



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おいしいとこどり [医療]

高齢者がどんどん増えて

いままで医療をしてこなかった人たちが、ヒトの命をお金に換算する商売を始める。いや、というより命を扱うことは出来ないのだ。だから、生活以外のところはすべて病院にお願いしたい。

急性期病院は急性期病院で、急な病気以外は自分達の対象ではないと考えている。そこですれ違いが生じる。

施設はちょっと危ないと思ったら任せたいと思う。その人がどういう最期迎えるかなどということは想像もしたくないように、そして軽快して戻そうとすると、自分達がみられる範囲ないかどうかを神経質に評価したがる。施設はもうみれませんとうだけで、だからどうするかはすべて旧制病院が担うまるでそういうシステムのようになっている。いったいいくらもらっているか知らないが施設の嘱託医などは形ばかりで実を担っていない。

この不思議なおいしいこと取りシステムいつかは改善していくのだろうか?

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今日話したことまとめ MI [臨床]

新しい病院に来て、一年と少しが過ぎた。フリーターという家に帰れば無罪放免という立場はそれなりに楽しく、子供達に専念できたように思うが、実際病院で入院ももっても以前ほど自宅に引きづらずに過ごせることに気づいた。いいことなのか、わるいことでもないのか。。にしても久しぶりのひとり持ちでCVなんかもバンバンと自分で入れているし、他職種のひとたちとのいいやりとりもわるいやりとりも、ある。ソフトローテーションさせてもらい自分なりに今の病院での方法を模索するという進歩も見せた。思えば、教育教育とふんぞり返っていては、自分が正し事を主張する満足感は得られるが、それ以上の人としての成長はなかったように思う。いまいい方向でもわるい方向でも人との対話により、何かを決めることの難しさのなかでもう一人の自分を生み出そうとしているのだ。



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相対的な正しさ [つれづれ]

世の中には、常に自分が正しくないといけないヒトがいるようだ。それは常にではなくてもなんらかの、必要性として(例えば、上司だからという理由で部下に対して正しくないといけない)正当性を通すヒトがいるような気がする。そんなときの武器として1つは”自分を否定するヒトには言わないもしくは、影で言う”もう一つは”多くの賛同してくれそうなヒトを巻き込む”のようである。

果たして、実際にそうしているヒトは自分が正しいと常に信じていられるのだろうか?違うかもしれないとおもっているから、上記のような振る舞いになるのではないだろうか?

 

そしてそういう自分は逆で、自分が間違っていること思うことを後から気づいたにせよ、放出しておくことに耐えられないようだ。自分が正しいと信じられるものの上に乗っておかないと、落ち着かなくてしょうがない。そういう性分のようだ。それでいて他の人たちにも賛同してほしいというところが悲しいところなのだが、それがかなうよりは自分が安定していたいのだ。上記のようなヒトはある意味リーダーになりがちなのだが、もしそれが自分とかち合うとき、子分たちにもにらまれる結果になるが、そんなうえでも「まず相手の話をきいて十分に理解する」の習慣を行使しつづけられるか心配だ。むしろ折れたふりのほうが楽である。

 


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なにを生み出せるのか? [つれづれ]

新しい病院に来て、一年と少しが過ぎた。フリーターという家に帰れば無罪放免という立場はそれなりに楽しく、子供達に専念できたように思うが,

今は、実際病院で入院をもっても以前ほど自宅に引きづらずに過ごせることに気づいた。いいことなのか、わるいことでもないのか。。にしても久しぶりのひとり持ちでCVなんかもバンバンと自分で入れているし、他職種のひとたちとのいいやりとりもわるいやりとりも、ある。

 

ソフトローテーションさせてもらい自分なりに今の病院での方法を模索するという進歩も見せた。思えば、教育教育とふんぞり返っていては、自分が正し事を主張する満足感は得られるが、それ以上の人としての成長はなかったように思う。いまいい方向でもわるい方向でも人との対話により、何かを決めることの難しさのなかでもう一人の自分を生み出そうとしているのだ。

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がんばった!



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ヒトを許すとは? [つれづれ]

考えてみれば、自分の黎明期は、自分を信じること、そして20を過ぎてからはヒトを許すことが自分の人生のテーマである時期が長く続いた。つまり、初期段階ではヒトの意見を受け付けることなく正しいと思える自分を持っていればそれでよかったし、それもそれなりに受け入れ絵られル人に受け入れられてきた。「ヒトを許す」などと高飛車のようではあるが、実際は自分自身をおとしめるか傷つけることによって成されるのだったし、そのはざまでかなり苦しんだ時期があったように思う。

完全に言い訳だとしても、こと恋愛に関しては、ヒトを許すという名目で、自分をおとしめることがいつのまにか快楽となり、実は自分の正体であったことに気づかされたような気がする。

では、今やっとこもう一歩進んだことといえば、ヒトそれぞれを認めるということだった。それは自分自身の中に取り込んで、許す必要はなく、それはそれで認める、自分はそうではない。という技である。それにより円滑な仕事運びが以前よりはましになり、そしてだからこそ自分を自分が認める自分に置いておけるようになったように思うのである。

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エリザベス女王 [つれづれ]

エリザベス女王が即位70周年なんと95才でお元気で大人気!というニュースが今日広がっていた。そういえば小学生の時女王様が乗っていらっしゃるという近鉄特急を見に行って、親に「女王が見えた」と医ったら、絶対そんなことはないと言われた。今考えるとたしかに見えなかったのだろうと思うが、あの時、「そうなんだよかったね」と言われていたら、今自分はどう思うのだろうか?そう考えると、自分の子には、「そうなんだよかったね。」と言った方がよいのでは。とまた反省の色になる。にしても日本でも天皇のことを悪く言うヒトはあまりいない。それはあの独特の話し方も含むカリスマから来るのか?それとも利害に関与しないからなのか?日本の大きなそして小さな社会をこれまでみてきて、とかく利害、利権がらみ、害を少しでも減らそうというひとたちが利はおいておいて批判する構図が見えてくる。それが小市民というものなのだろうが、そして民主主義とはそういうものなのだろうが、それが小さな社会。組織でおこっており、それがトップになりたいヒトなりたくないヒトを分けているという2次的な結果ももたらしているかもしれない。みんなで幸せに、、などというものはおままごとか教育現場でのみ言えるこのなのだろうか。

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