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相互承認 [子育て日記]

今日は朝から5km走り、子供の水泳に付き合って自分も少しジムそして少し泳いだ。ここまでは自分自身のためであることも大きく、ただ、嫁が夜コンサートに行くということから、子供達を合唱の練習に連れて行くという、やってやった感も少しあったかもしれない。

合唱のあとは下北沢のお祭り(のようなもの)に連れて行った。子供達はかき氷を食べたいがために30分も並んだ。そして動物がたくさんいて、それらを見て回った。その間蛇をクビにかけてもらうために、父が代わりに並んでおいてあげたりしたが、子供はめっちゃたのしんで、実際父はただ疲れた。

帰り際のファミレスで「疲れた」と一言発したところ次女がそれにあがらうように「わたしだって疲れたよ!」と強い口調で言った。それに対してわたしは切れてしまった。怒ったあとの選択はなかった。最後の決めゼリフに「それはそれはお疲れ様でしたねー」と皮肉っぽく言ってしまう始末です。

子供のために炎天下ずっと待ってやったぞ的なものが貯まっていたのだろう。ちなみに嫁が絶対自分がいやなことはしない。ということへの反論の気持ちも込められているのだが、しかし自分の犠牲感が生じるほど子供に尽くすのがよいことなのかどうなのか、自分のなかで葛藤が生まれた。こんなことで怒るくらいなら、そこまで頑張らない方がましだったのではないか?しかも怒ったことでいままでの子供が楽しかったことまで台無しにしてしまった。

いつも強きで反抗していくる次女が今回は反省の色を示していた。そして「悪いこと言ってごめんなさい」と言ってきた。自分も「大人げなかったよ」と言いたかった言葉が言えた。自宅に帰ったあと、たまたまヘーゲルと哲学をテレビでやっていた。

彼のいう「告白」と「赦し」そして「相互承認」はいわゆるこう言えば相手は反省するのでは?などではなく、子と父のそれぞれの自己批判から生まれたように思う。

しかしこのとき怒りを感じた自分はしょうがないとしても、もっと別の言い方があったのは確かだろう。もしくはなにも言わないという選択もあったと思う。今回は怒りにまかせてぶつけたことがどうやら子供の自己批判を作るきっかけになった(と思う)のだが実際は紙一重だったし、もしかしたら父という権威におされてのことだったかもしれない。なにもいわなかったとしたら、もしかしたらずっとあと自分がこの世にいなくなって、子供が親になったときに気づいてくれたかもしれないしその方が効果的かもしれなかった。なんて思うのだが、まだまだ生きている業が自分にもあるのだから、ある程度の供与はいただきたいとおもうところはどうしようもないのかもしれない。

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人間はいつも群れたがる。 [つれづれ]

人間はいつも群れたがる。

いつでもどこでも人はグループを作っているが、そのグループの結束のために他のグループや人を批判的にいってみたりする。資本主義自由主義と謳っている国が、社会主義の国を許せないのは、それとほぼ同じような心理なのだろうか?それとも富裕層の中にいる国を操っている人が、貧富の格差が起こらないと困るという理由で、社会主義が広まったら困るということなのだろうか?いずれにしても、内政干渉的な戦争が大戦後ずっと続いているように思うが、それによって悪い連鎖が起こっているという状況はなぜ寛容されているのだろうか?それも戦争があったほうが都合が良い人たちがそこをうまく操っているのではないだろうか?ロシアがウクライナに侵攻する事は、後から見てみたら全然あり得ることだったわけで、予言してる人もいっぱいいたし、ウクライナがNATOに入る前に、ロシアが自分の分身もしくは兄弟である地域を取り戻したいと思っていたのは誰が見ても明らかだったと思われる。そもそもウクライナの東部のヒト達はむしロシアに帰りたかったのではないだろうか?それをウクライナが絶対に許さない姿勢でいることを知っていて、なぜそれを阻止できなかったのか阻止しない方が都合がいい人がいろんなとこにいたのかもしれない。それはつまり阻止しなかったことで得をした人がやっぱり疑われてもよいのではないだろうか?

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