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教科書的 [臨床]

自分達は患者さんに当たったとき、教科書通りだととてもすっきりした気持ちになり、満足感を得られる。それがないときはなんだかモヤモヤする。それゆえ、主訴から教科書にないような人だと最初からモヤモヤするし、あたかも診断がつきそうにない人にもモチベーションをなかなか持てないものである。実際そういうヒトたちが総合内科外来に回ってくるのも理解できる。ではなぜそうなのか?労力に見合った結果が得られないというだけではなく学生時代の教育そのものが教科書のみだからではないだろうか?国家試験も典型的なものを当てるゲームのようなものである。「どのように思考を働かせて、どのように解決を導くか」それはフワフワしていてテストできない。よって教科として完全でないので学校では教えにくいようである。しかし仕事を始めてもっとも必要とされる技術なのである。その技術があれば、教科書にないような人ばかりの世界でも物怖じせずに体当たりしていけるのに、と思う。そんなに知識が大切なのだろうか?

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潔癖症な国 [つれづれ]

日本では相対的にではあるが、パンデミック回避のような形になっているようである。それでも本当のパンデミックの予行演習になったのかもしれない。

 

それとも日本は(外国と違って)特別清潔な国なのかもしれない。つまりそれは、もしかすると海外のヒトからみれば、潔癖症とも映るような普段の行いが、実は現状の地球環境に合っているのかもしれない。

 

百歩退いてコロナが中国が開発中だった細菌兵器が漏れ出てしまったものだとしたら、日本人の標的をわざわざ外す訳もないし、(彼らと遺伝子的な共通な部分に作用しないように作ろうとしたかもしれないが)しかし現在の変異株は韓国 上海で大はやりしているし、やはり日本人独自のものであるように思い。それは環境というより習慣なのではないかと思う。西洋人のようにくらす日本人やアジア人日本人のようにくらすアングロサクソン人などいろいろスタディしてくれないかな?



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ウクライナと女性問題 [つれづれ]

現在戦場となっているウクライナから18から60歳までの男性は出国を許されていないらしい。そして逃れようと女装した人がネット上にさらされていたりするらしい。このような状況ただただ男女平等を叫ぶ人はなんと説明するのだろうか?それとも、現代は体力を武器に命を投げ出さなければならないような事態がないために、男女平等の範囲がひろがってきたと言えるだろうか。

 

自分は仕事の機会や政治グループなどでの平等を否定するつもりはないのだが、人間が長い間行っていた役割分担の歴史の中で、いまだに続いているものはあるし、それは男悪いわけでも女が悪いわけでもなく、習慣的なもしくは文化的なものなのではないだろうか?つまり声高らかに叫ぶのではなく、時代の移り変わりとして何が変わると何が変わっていくのかを見定めることなのではないかと思う。

女性が子供を産むのはおそらく永遠に変えられない事実であり、その上で女性の能力が男性と同様に発揮されるような世の中とはどんなものなのか?現時点では産後一年は仕事を休む人が多いし、赤ちゃんは2才になっても大変である。その分夫がというが、夫が仕事を休めば会計は立ちゆかなくなるかもしれない。それに子育てというのは非常に大切で大きな社会貢献でもある。

 

とはいえ、例えば医師の問題も大学が女性をとりたくない理由もこの環境で働いてわからなくもないが、女性が休んでも余裕でカバーできる環境を作ることができなければ問題は解決しない。また逆にお金持ちに嫁いで人生を依存しようという玉の輿的な考えも根強く残っているヒトもいる。

 

 

だれでも考えつく最初にやらないといけないことは子育て支援なのだろうが、自分の子は自分で育てたいというのは母として父としての本能であるし責任問題も複雑である。では核家族化が問題というのであれば、リモートの流行はその手助けとなるかもしれない。自分はこんなことしか思いつかないのだが、女性議員を半分にする宣言などは甘やかしだと自分は思う。

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こどもというものは、、、 [つれづれ]

子供というものは本当に○○できる子にしようとすればするほどに従わない仕組みになっているようである。だからこそ昔から躾は厳しくしてよいのかもしれないが、その躾を厳しくしても全く効果がないどころが逆効果である。たとえば「何度言ったらわかるの!?」は絶対にわからない。もちろん、これができなそうだから、しつこく直そうとしたけれどやっぱり先天的にできないのか。直そうとするのが見えるとやらない条件反射があるのかはわからない。ひとつ確実に言えることは自分が余裕をもっている必要があるということである。

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生き方? [つれづれ]

人生の目標とよく言われるが、正直あまり具体的な目標というものはない。強いて言えば、自分がどんな人間になれるかだろうか。自分は実は最高のヤツだけど、いろいろ問題があって大成していないなどと言い訳を積み重ねてきた感は拭えないのだが、子供ができてみると、なにか形にならないような部分で自分の未熟さがあぶり出されてきていることと最近向き合うようになった。


 


これまで少なくとも、正しいと思うことを信じてやってきたわけだが、それはそれで幸福な環境に身を置くことができたからだろう。人から何を言われようが、自分が正しいと信じられることは、それだけで生きている意味があるかのように思えた。


 


しかし年をとって、自分の人生は自分ひとりのもではないことに気づき始めたようだ。長い間に培われた自分を変えることはできないが、生き方は変えることができるのだろう。それが逝き方につながるだろうか。


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※13km走ったら仕事に遅れそうになった。


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ゼレンスキー大統領 [つれづれ]

しかし、ウクライナ大統領の日本での演説はみごとだったのではないだろうか。なぜだか、他の外国には要求だの、少しの脅しだのがあったようだが、日本には優しい言葉しかなかったようだ。アジアのリーダとか、災害からの復興だのポジティブが言葉が多かったように思う。それはいったいどういう計算だったのか?どうせ今の日本の法律では実践的な援助は望めないからいい気持ちにさせておいて財政面や経済面を含めた長い意味での布石と投じておこうと、斜め目線の自分から見てしまうのだが。それにしても、あくびをしていた外務大臣がえらく攻撃をうけていて、まぁしょうがないとは思うが、実質的なところを問うべきではないかとも思う。ただ、自分の娘の話を聞く態度を注意していたところだったのでまんまと使わせて頂いた。

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もう一つのバランス [臨床]

もう一つのバランスといえば、エビデンス、医師の技量、患者の志向の3つのバランスがあり、これもシチュエーション 疾患の質によって変わってくる。その辺りを理解していないと、常に杓子定規に正しいと思われる治療を施すことになり、本来の医療の目的である、患者もしくは家族の幸せ。にはたどり着けないことになりかねない。

では正しい医療ではない医療をするのか?い言われると、もちろんそうではなく、多くの場合”やり過ぎ”が幸せを遠ざけることを意識すべきである。また医師の技量を把握し、エビデンスの限界を技量で埋めることで医療を行っている。それはエビデンスの限界を知る努力をつねに怠らないことにほぼ同義である。

また医師の技量は必ずしも一定なものでなく、いわゆる常に最高の医療を患者が受けられるか?という疑問には残念ながらYesとは言えない。そしてそれができるようなシステムが作られているかというとそれは全くもって違う。医師同士の役割分担は決して空からの視線で見られることはなく、それぞれのグループや個人がおそれぞれの近眼的な視点で活動しているというのが事実である。

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診断のバランス [臨床]

以前自分は診断をつける過程として基本的に大風呂敷を広げてその中から有力なものを病歴で絞り込んで検査によって解答を出すというのが基本だと考えていた。もちろんSnapShotDiagnosisといわれるように、いっぱつで診断がつくようなものもあるだろうし、いわゆるパターン認識的な見方もある。また、どうして無難しい急を要さないものとしては、鑑別を各カテゴリーで考え、一つ一つ潰していく方法も存在する。

 

ところで、エビデンスというものは数字で表されることが多いが、実際は計算したりする事はないし、診断のエビデンスが直接診断に寄与しているような感覚は実はない。

 

最近の総合医と呼ばれるものは声高らかに病歴身体検査大切と言うが、実は想定する疾患とのバランスが違うのであって、そこをしっかりと意識する必要がある。例えば狭心症は病歴でしか診断できない。また、命に関わるような病気は、ある閾値を超えれば後は検査だよりとなる。th_IMG_9341.jpg


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次女の卒業 [子育て日記]

ついには次女も卒園し、我が家の生活も一段落を迎える。二人が通っていた幼稚園には自分も結構顔をだしていた。上の子の時とは少し違った感情を不思議に思うのは、自分達もここから離れていくことの覚悟をうっかり忘れていたからかもしれない。成長してかわいかったころを過ぎていくことはさみしいことではない。思い通りにならないペット感を懐かしむことはせまい。とそういう覚悟をしながらも、これはよい道に進んでいるのだろうか?修正がひつようなのでは?などと毎回おもってしまう自分がいる。どれだけ彼女達のココの中を把握できるか、その当たりなどは全く自信がない。自分は自分で集中することもあるわけで、そちらが父親として示すものなのかもしれない。

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クセなのか! [つれづれ]

大切なものをいつどこでなくしたのかまったく思い出せないことがある。ないことに気づいた時の絶望感たるや、たいへんなものである。しかもどこからどこまでたどって探せば全くわからないのである。ヒトを疑ってみたりもするのだが、忘れた頃、思い出せなかったところからみつかるのだ。大切なものであることはわかっているのだからどこか大切なところにしまうのだけれど、それを忘れるから、逆に決して落としていたりしないし人目につくようなところに放ってはいないのだ。だからこそ見つけにくいのだが、結局みつかるのだ。なんどこのような経験をしただろうか。。。これを読んでいるひとは「おまえ娘のこと言えないだろう」と思っているだろう。


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※こんなところに!


 


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