SSブログ

院長面談 [つれづれ]

今日院長先生との面談で50分ほどお話をした。お国は開業と病院の役割を明確に分けている方針をとるから新患からは初診7000円とると、なので病院での外来での役割は減ってくるだろうそして専門外来の価値の方が相対的に高くなっていくだろうと。そうなってくると開業医からの紹介はメイン検査目的のようになっていく。こちらもそういう心持ちでうけるので臨床推論というより、検査テネスムス的な診療になりかねない。しかし院長は自分の診療スタイルがそういうものではないとしって、それを否定するわけではなくこの話を持ちかけているというところが救われるところだ。

あとは専門医的なものをとっておけ的は発言だったが、これにはどうしても賛同すれどもただただ、めんどくささ対効果が認められない。

おおむね自分サイドの考えを理解して頂けているようでこの院長がいるからやっていけると感じた今日であった。

th_IMG_9302.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

2022-03-14 [医療]

医療を行う上で身体所見など無用の長物だとか、時代遅れだとかコミュニケーションツールだとか言われて久しい。たしかにすべての人が検査だよりで診療をすれば、それがもっとも有用な診療の方法になってくるだろうし、客観的に見える結果は、説得力があるし、仕事量はかなり軽減される。しかし身体所見が有用である場合もいまなお残されている。例えば、採血結果やCTよりも感度や特異度が高いもの。(胆嚢炎)abarabilityの問題。診療所、スキル 夜間出来ないもの。頻回な経過が必要なもの。そして検査前確率を高める身体所見はそれを使いこなせるひとと使えないひととでは大きな差が生まれる。というより、つかいこなしているグループと使わずに検査に頼っているグループとが大きく違う診療をしているということだろう。実は日本の診療報酬は後者の方に有利なシステムとなっている。だからこそより後者的診療が幅をきかせ、いろいろな情報を駆使して、検査をするべきかせざるべきか悩んだりするのは、後者グループ内ではなにをやっているのかわからないという見方になる。そんな感じだろうか。

th_IMG_9284.jpg

 

 


nice!(0)  コメント(0) 

当直 [医療]

自分は過去患者を断らない病院を選んでこの仕事をしてきた。それが医師として最低の使命だと信じてきたからで、毎日毎日どんどんと入院が必要な患者さんを受け入れ、いかにベッドを空けるかをばかり考えていた。そんな時期もあった。そしてそんな中でどの病院も普通に患者を受け入れていれば自分のとこにこんなに集中するはずがないとそんな風にも思っていたし、できれば輪番と言うものが存在するのであればその日だけでも人員を導入して病院が頑張れば良いのではないかとも思っていた。日本は戦後ものすごい勢いでいろんなものが発展してきたように思えるが実はそれは目に見えるものであって、当然整備されてしかるべきシステムすらいまだにできていないことが多い。その典型例が救急医療ではないだろうか。そもそもベッドがいっぱいで入院できないけれども救急やるとうこと自体が自分にはよく理解出来ないのだ。

th_IMG_9287.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

30年 [つれづれ]

自分が生まれてから阪神淡路大震災までそんなに大きなことがなかったような気がするのだが、強いて言えばベトナム戦争?オイルショック?リーマンショック?チェルノブイリ?ソ連崩壊?月面着陸?でもどれも直接日本の本土で起こったことではないというか、自分自身がダイレクトにそれを受け止めていなかったように思う。もっと言い方を変えれば自分が経験したことではなくその時起こっていても歴史上の出来事のように感じていた。この短いようで長い30年でどれだけのことが起こっただろうか。というのも戦争が終わってから30年というのは自分が生まれてから10年後なのだ。そう考えると戦後戦後と人々が言っていたのそれこそ歴史上の出来事のように感じていたが今の子供たちには阪神淡路震災も東日本の震災も歴史上のことでしかないのかもしれない。何が言いたいのかと言うと世の中をひっくり返すような出来事に比べて案外人生って長いんだなと思う今日この頃なのである。50年も生きるともうすでに歴史の1部を経験することができるということで、これは経験しないとやはりわからないことなのだろうかなんて思う。しかもその歴史というものも自分に伝わってくるものが本当に本当の事実かと言われると正直自信がなく、だとしたら歴史なんて見るものももっともっと湾曲されているんだろうなと想像に易いものである。

th_IMG_9281.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

お隣さん [つれづれ]

お隣同士とは基本上手くいかないものなのだろうか?確かにずっと以前いじめていたのは我々の方だったのかもしれないし、そのことを忘れようとしているのはよくないことかもしれない。

 

そして我々は彼らが自分達の事を悪く言ったり、いつまでも許してくれないのは国民の人気をとるためだ論法を展開しているが、そのあたりも真偽のほどは100%ではなく、いろいろな感情が混ざり合っているのだろう。そしてちいさな島をわざわざ争いの焦点にしたりしている。

 

あたらしい大統領が親日のようなことをいっているが、我々が別の国でお互いがプロバガンダを行い続ける限り、若者たちが文化から交流を深めたとしても、我々の溝はうまらないのであろう。

th_IMG_9278.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

immatureな世界 [つれづれ]

子供の頃、御香宮のお祭りに行った時、変な見世物小屋にはいった。今から思えば、奇形の女性が見世物になっていると今では考えられないような光景が普通にそこにあった。四つ足でしかいられないその人が二本足で立った時に拍手を求められたのもを不思議な気持ちで見ていた。さて、あの見世物小屋はお金のたまにそんな人権無視のことをしていたわけだが、あの人を殺しはしなかった。あの人がどのように考えていたのかはわからないが、あの時代福祉なども発達しておらず、それが生きる唯一のすべだったかもしれない。昔のことだから、という気になるが現代でなおかつあの見世物小屋の人よりもずっとすましているが、じつはずっと低レベルのことをしている人がこの世に存在している。それも堂々とあらかさまに行っている。なんと人間とは形ばかりが洗練されても内容は全く成熟せず発展しないものなのだと思う。どうやらそういう国に生まれたのではなかったであろうことに胸をなでおろしている。

 


nice!(0)  コメント(0) 

勝てば官軍 [つれづれ]

今まで世界は「勝てば官軍」の理論に基づいて物事は決めてきた。その結果大戦で負けなかった国はその国がどういう国であれ、世界の平和のカギを握ることになってきた。では今のロシアの暴挙は勝つであろうが官軍になり得るのだろうか?そうなったらそれこそ世界はおしまいかもしれない。一度見なくなりかけていた分断のラインがまたくっきりと世界は二分することになり、一触即発がつづくことになる。問題は、早くそうしてしまった方がヒトが死なないということである。そして、ヒトが死んでも結果は変わらないということである。

 

国連安保理で国連軍を出せないのはロシアが拒否件を行使するからなのだが、実は例外は可能。(実際スエズ危機の時には国連軍が動いている)しかしいずれにしても軍を出すのアメリカなどの大国、今大国が大国であるロシアと争いを始めると、世界大戦に発展するリスクがある。なのであえて国連も大国も目をつぶり、ウクライナには犠牲になってもらうのが落とし所と考えているのではないだろうか?その証拠に今ウクライナ大統領であるゼレンスキーを脱走させる計画がNATO側から計画されている。ウクライナがロシアになるのかどうなのかということはさておいても今から死にゆくヒトを救うことになるだろう。

 

つゆ子はお母さんがご飯を作ってくれないけれど、友達の周子がいたので彼女からお金を借りて食べつないでいくことができます。ドッチボール大会まであと一週間。これくらいは大丈夫そうだし、なんならお金持ちの周子の家の養子になることも考えています。しかしドッジボール大会では勝たなければなりません。なんとしてでもらい子をBチームに引き戻そうと考えました。あめ子たちAチームもらい子がBチームにもどったら鞄を返してもらえるのからその方がよいのではと考え始めました。鞄が返らないとらい子は学校にも来られず、あめ子達と遊ぶことも学校で学ぶこともできなくなるからです。

ついにあめ子はらい子を説得するために会いに行きました。

「そんなの嫌だ!」らい子は叫びました。つゆ子のいいなりになるくらいなら学校なんか行きたくない。その気持ちは変わっていないようです。あめ子は困ってしまいました。

あめ子は考えました。もし私たちがつゆ子の家に忍び込んで鞄をうばってもつゆ子はますます怒ってしまい、けんかが終わることがない。ドッジボール大会は毎年恒例の行事でこれにより進学が決まるのでやめるわけにはいかない。このままらい子が学校に来られなければらい子は卒業できない。どうしたらいいのだろうか?

th_IMG_9266.jpg

 



nice!(0)  コメント(0) 

2022-03-07

明日死ぬかもしれない毎日を100%で生きているかと言われれば、間違いなく答えはノーである。では間違いなく自分の信念を貫いているかと言えば、そこは逆に大人になって周りとのバランスは取るようになってきている。それでいて自分の芯のところは絶対に揺るがないことにしているので、周りの人から見れば柔らかいと思ったら突然頑固になったりして不可解に思われていることだろう。

本当は常に自分をしっかりと見せることの方が大事なのかもしれないが、それほど疲れる事も逆にないかもしれない。つまり毎回毎回ちいさな事もふくめて、ちゃんと説明しながら仕事をするということ。ヘロヘロせずにそのたびきちんと説明するそんな自分に戻りたいものだ。いま子供に対してがんばっているように。

th_IMG_9261.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

ドリトルせんせい [感想]

昨日映画ドリトル先生の最新版を見た。動物たちのCGはあまりにもリアルでそれを観るだけでも楽しい映画に仕上がっていた。人間は動物と人間と分類として分けて考えているようだが、確かに別の種類のものだが、トンボまでもが仲間である映画は生物としての仲間だという感覚を子供たちに植え付けてくれないかという期待を持つに十分のものではあった。ただ、個人的に豚牛 鶏など普段我々(特に西洋のひとたち)が食用にしているヤツらは仲間として出てこず、明らかに避けられていることが少し気になった。しょうがないのかもしれないし、それで牛肉を食べられなくなったりとか、それはそれで人類の習慣に背くのかも知れないけれれど、やはり人間としての驕りが入っていると言わざるをえないのだろう。子供たちに見せるなら、その部分は隠蔽して後回しにしておくしかないのだろうけどね。


A2CF6499-0BC4-4BF6-96A8-3EF53113529A.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 

知らない人が死んでも [つれづれ]

誰かが死んだときにその人がどれぐらい近しい人だったかということで悲しみも生き残った人のその後の人生も変わると思うのだが、つまり正直日本全国でも世界でも知らない人が死んでいることにいちいち心を痛めていられないしそのことで自分の中の何かが変わったりもしない。


 


しかしアニメなどで視聴者の思い入れのあるグループだけが生き残り、その他大勢はバタバタと死んでいくというのもどうだろうか?自分の中でも物語の中の知っている人が死んだらやっぱり悲しいし顔も見たこともない人がうたれてもなにも感じない矛盾を矛盾ともも思わなくなっていったりもするけれども、そこに確かに矛盾が存在する事は事実でありそれが子供たちにどのような影響を与えるかという不安を感じている自分もいる。ただ自分が自分の子に伝えたいのは、明らかに間違っていることですらいつの間にか正しいことにすり替えられてそれに気づかないことすらあるという事。それに気づく強い心が必要だということ。


th_IMG_9229.jpg


ここれは、、、


 


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。