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人間はいつも群れたがる。 [つれづれ]

人間はいつも群れたがる。

いつでもどこでも人はグループを作っているが、そのグループの結束のために他のグループや人を批判的にいってみたりする。資本主義自由主義と謳っている国が、社会主義の国を許せないのは、それとほぼ同じような心理なのだろうか?それとも富裕層の中にいる国を操っている人が、貧富の格差が起こらないと困るという理由で、社会主義が広まったら困るということなのだろうか?いずれにしても、内政干渉的な戦争が大戦後ずっと続いているように思うが、それによって悪い連鎖が起こっているという状況はなぜ寛容されているのだろうか?それも戦争があったほうが都合が良い人たちがそこをうまく操っているのではないだろうか?ロシアがウクライナに侵攻する事は、後から見てみたら全然あり得ることだったわけで、予言してる人もいっぱいいたし、ウクライナがNATOに入る前に、ロシアが自分の分身もしくは兄弟である地域を取り戻したいと思っていたのは誰が見ても明らかだったと思われる。そもそもウクライナの東部のヒト達はむしロシアに帰りたかったのではないだろうか?それをウクライナが絶対に許さない姿勢でいることを知っていて、なぜそれを阻止できなかったのか阻止しない方が都合がいい人がいろんなとこにいたのかもしれない。それはつまり阻止しなかったことで得をした人がやっぱり疑われてもよいのではないだろうか?

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つぶやき。。。 2023/04/07 [つれづれ]


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オレオレ詐欺から [つれづれ]

世間ではフィリピンでの組織的な強盗が話題になっているが、かしこいのかあほなのか、とにかくお金がほしいということなのだろう。どうせ「オレオレ詐欺」がオジーおばーが賢くなってうまくいかなくなったための策なのだろうが、それにしても家にお金を置いている人がいかに多いことか。そして、その情報はどこから手に入れたのだろうか?そのあたりが一番気になるところ。
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2023-02-09 [つれづれ]

トルコ、シリアでたくさん人が死んでいる。つい最近そのあたりの情勢にこっていたこともあって、その前よりはすこし興味の度合いが強いのだが、しかし実際自分の周りの知らないヒト達も毎日亡くなっている。自分は自分の病院の他の先生が診ているヒトが亡くなったことも知らない。そんな中でたくさん人が亡くなっているというニュースをどう消化すればよいのだろうか?義援金をそれがどこ手どう使われるかなんてわからない。とか、めっちゃ取られている税金から政府が出しているからいいだろうという理由で払わないということにもなぜ少し後ろめたい気持ちにならされなければならないのだろうか?その気持ちを利用したのが義援金や募金なのではないかとさえ思う。

知ってしまったからにはお気の毒だし、やっぱり東北大震災の時のようなエンパシーは感じなくで申し訳ないとは思わなくもないけれど、今度はもっと上部な建物と作る制度にすればいいよね。なんて思う。


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刺激と反応の間 [つれづれ]

刺激と反応までのあいだにあるスペースは自分の感情でも考えでもない。

それは客観的なもう1人の別の自分ということなのか。

自分は感情こそが偽りのないそのひとを表すものだと考えていた。しかしコヴィーは人間だからそれをコントロールできるはずだと言っている。

また、アドラーは怒りは可能性と傲慢さの表現だと言っている。

いずれにしても人間は感情があるからこそ人間であり、歴史そのものでさえ感情で作られているのだ。コヴィーに言わせると多くの人間が未熟ということなのか。自分は常に3人いてそれがすべて自分なのだという訓練が成熟というのかもしれない。


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考えてみると [つれづれ]

今になって考えてみると小学校のころは何らかの自分のプライドのために生きていたようだ。

そして徐々に「結果」を意識するようになり、それでも結果がでなかったことで、プライドと相談して何らかの言い訳を頼りに生きてきた節もある。

たとえば水泳で大成しなかったのは始めたのが12才と遅かったからだというもの。小学低学年から始めた人たちにどうしてもおいつけなかった。しかしこれは今やっと考えられるのは、そう思っていたことが大成しなかったことの主な原因で、素質云々は今となってはわからない。しかし白血病を潜り抜けてもなお復活する彼女を見ているとやはり生まれながらに備わったものは大きいと認めざるを得ないのかもしれない。

学歴に関しては、国家試験を3ヶ月の勉強で軽々突破できたことから、全く頭が悪いわけでもないのだろうが、あの時は自分があの時の教育、受験というものに従うことが自分の時間を無駄に奪うと考えていたことは確かだし、自分が自分を磨く方法でも、記憶一辺倒に見える受験さえものる超えられると考えていた。実際数学の先生たちも自分のことを認めてくれたことが自分のプライドを支え続けた。なにも考えず、1年間棒に振ったかもしれないような勉強を周囲の環境にあわせてやっていたら、また結果は違っていたのかもしれないが、そうであったならば自分は医学の道へは進んでおらず、今の結構気に入っている人生を歩むことはなかったのだろうし、もう一つあったかもしれないような人生を想像したりもしない。

さて、高校を卒業して自分とは違う人間を初めて発見してから、自分の人とは?愛とは?の旅が始まったわけだが、それはあまりにも遠く、存在自体も危ぶまれるものであり、おおかた自分は目をつぶり、頭を真っ白にして、ただの人生を仕返しのように謳歌した。そして時々そのあるかないかわからないものを追い求めようとして傷つき、疲れて諦めるというくり返しを続けてきた。

また、それ以外の人生は自分の正義を貫くことであった。正義という言葉が正しいかどうかわからないが、自分が正しいと信じることである。それは、自分が正しくないと信じることは認めないというものだった。自分が正しいと感じられることが自分の人生の糧なのであった。自分は性欲以外のものであれば、実際かなり正しかった。そしてそれを主張し続ける位置に居続けることができた。それは幸せなことだったと思う。

今の妻を選んだのも、おそらく自分が正しいことを証明してくれる存在だったからである。

そして、ある日自分は正しい、妻は間違っている、から解き放たれるのである。考えてみれば自分は今まで自分と意見のあった人としかうまく付き合うことができなかった。それでよいのかもしれないが、妻の場合はそうはいかなかった。こどもたちはいつかわかってもらえるかといえば大間違いで、実際妻は彼女の元の家庭の間違った部分を多く引き継いでいるからこそ、間違っているのだ。

自分が正しいと思っていることを指摘されて怒ることを「逆ギレ」と子供に告げられた瞬間文字通り自分はキレてしまった。そんな自分に違和感を感じ、なぜそんなに気持ちになったのかを考えて、自分が自分の正しさのために生きてきたという事実を手繰り寄せたのだった。それまでは妻の間違いは自分を慰めてくれるもの、安心させてくれるものだと考えていたのだが、どうやら、この結婚が相手を認めないところから始まっていたことにおどろき、逆にそれは正しくないのではないかと考えた。いつも子供たちに言っているように、いろんな見方がある、相手になって見てごらん。を当の自分が自分のひとりよがりの正義に依存して強引な考え方を押し付けようとしていたのだ。妻がちょっと注意したことでいつもキレるはやはりこの「おまえ間違っているだろ!」の圧迫があったからだと初めて気づいたのだった。


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勉強すれば出くわす [つれづれ]

「勉強すれば出くわす」は本当だった。最近中東問題に入れ込んでいるが、2日前にイスラエルを旅行した若者が外来に来た。イスラエルの首都をエルサレムと言ってはならないことや、カザ地区の内戦はまだ危険な状態であること、食べ物が宗派に寄って違うから大変だったことなど、そんな話しがほんの2週間前ならできなかっただろう。本当にボーッと生きていると世の中の起こっていること起こっていたことを知らないままに過ごしてしまうことを実感する今日この頃、日本の中に自然に降ってくる情報ではかなり修飾され、選択されたものなのだから。

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小さな大事件 [つれづれ]

考えてみると、自分は自分の生き方と言うものは、自分が正しいことが

自分が正しいかどうかが大きなウェイトを占めていたように思う

そしてそれが正義だと思っていたように思う。自分の考える正しい考える行動や言動以外の人の行動を認めないわけではないが、少なくとも自分が間違っていると思えるなことをしないことが、自分の人生の根幹にあったように思う。もしかすると、前妻は正しく自分が間違っていたから別れざるを得なかったのかもしれない。そして今の妻は間違いだらけでだからこそ自分が生きていけるのかもしれない。自分は今の妻が間違っている事は問題ないと考えていたが、そのことが子供たちに及ぶのだけは避けたいと思うようになり、妻の間違いを直したいと思うようになった。もちろん、その間違いというのも自分の価値観の上でのことであるのは言うまでもないが、一般的にも間違いとは言わなくても、正しくない事はたくさんある例をあげれば、キリがないが、自分は子育てとは奉仕の喜びと考えているのだが、

例えば妻は何かにつけて、子供よりも自分を優先することが多い。その母親も近くに住んでいながら、子供たちを長期預かって、自分たち夫婦が遠くに出かけさせてくれることが1度もなかった、妻が1人でコンサートに行くのに、託児所に預けないといけないことが何度もあった。妻の姉は、その母親と一緒に住んでいるのに、なぜか母親の用事のたびに自分の妻が呼び出される。そんな習慣を引き継いでいるのか、騒ぐのならば私が寝ている横の部屋でさわげと言う。子供には居間にものを置くなと言うが、自分は今のテーブルの上にここ何年間も自分の私物を置きっぱなしにしていた。私がどんなに近くのスペースを作っても。そこもまたものでいっぱいになり、机の上に私物が置かれることになる。トイレは汚い所であるということがが感情的にしみついており、子供が地面に座ることことやカバンを置く事はヒステリー的に嫌がるのである。子供がご飯を上手に食べたり、正しい姿勢で食べることよりも、子供が服を寄越さないことのほうがずっと重要のように注意する。風呂場の髪の毛を嫌だという理由でなかなか片付けず、ずっと私が片付けていた。自分に正直と言えば、そうなのかもしれないが、ある意味すべてのことが何かの反応によって決まっているように思える。その根幹になる理由をもたないそして、それだけに、その主張は強く他を否定する。また否定しないと主張を通らないと経験がそうさせているのかもしれない。結局は感情に支配されているのである。おそらく私に対しての家でトイレの後に手を洗わないこととか、朝起きてすぐに歯をみがかない(自分は食後がいいと思っているのだが)には不満に思っていて、そういうことをその不満が、子供への感情的な怒りに通じてるように見える。というわけで、彼女がいろんなことを間違っているおかげで、私は自分が正しいことを確認しながら生きていけているのであるが、先に述べたように、それが子供に伝播していると感じたときに、私は強い憤りを感じてしまう。

つい先日、大きな事件があった小さな事件なのになぜ大きな事件になったかはあったかを考えることで、今回の発見になったわけである。嫁は居間の自分が気に入っている側しか掃除せず、片側を散らかし放題であったが、はげしくたまったゴミを掃き出しては、こちらも掃除するようにアピールをつづけていたところ、片側に自分が本を置いていることを、娘に愚痴った上に、それを注意しないのは逆ギレされるからだと話していたことを娘から聞いてしまったのだ。居間には子供の学校のプリントは自分だけの筆記用具、そのほかいろんなものを整理されずに置いておきながら、少しの本が置いてあることを注意する資格などないことを重々しっているからしないところを逆ギレということばで子供を悪い方の味方に引き込もうとしたことは許せないと思い、今まで自分が妻に対して少しずつ直してもらってきたとおもってきたことがすべて振り出しに戻されたされた気分になり。この人を選んだのは間違いではないかとさえ思った。

 

それで三日間考えたわけだが、やはりどうやら自分は自分が正しいことがものすごく大切な人間な人間でそれを認められないことが耐えられないのであることに気づき、また夫婦はいつも話し合って決めるべきだろうと、自分は妻に言っていたのだが、妻はそれをいつも無視して、自分がいいと思うことを子供たちにしつけていたところがあったのだが、私が正しい理論武装でいつも構えているためにとてもこの人をやり込めることができるわけがないと、戦い(話し合い)を避けていたのではないかということにも気づきだ。

 

つまり少しずつ私の考えに(特に教育方針)に傾倒してきていることに私は少し満足感を感じていたが、それもこれも彼女の内側からの賛同ではなく、自分の発することの反応としての変化にすぎなかったのである。つまり、理論として正しいことが必ずしもよしではない。そのことを理解しなければ、彼女と本当に話し合う事はできないということなのだ。自分は妻の今の姿は、環境によって就職されたものであり、いつか変わってくれる(本来の自分に戻ってくれる)のではないかなどという幻想をいだくことで、耐え忍んできたことがたくさんあるが、本当の意味で妻の中にあるものがほとんどが反応であることを理解しない限り。つまり正しい事とか間違っているという理屈では説明できないことを理解し、自分の正しいがいかに妻にプレッシャーを与え続けてきたということを理解しないと、

夫婦が本当の会話をできないように思うし、結局父の「正しい事」は子供に伝わらないのだ。この人を妻に選んだのはある意味自分のエゴでもあるし、そのエゴのおかげで子供にまで悪い影響を与えるわけにはいかない。自分が正しいということで簡潔してはならない。inside outは十分にその人を理解し認めたことから始まる。こんなことに気づかされた小さな大事件であった。

 


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今日の怒るかもしれなかったポイント [つれづれ]

院長がフォローしている若い患者さんだが、身体が悪く、つねに誰かが介助している状況。 発熱で来院。で、コロナが陰性であった。


介助するヒトも大変だし、入院させてあげろとの指令なのだが、コロナ抗原が陰性だからといって、コロナ感染していないとは言えない。偽陰性というものは常に存在する。だから発熱のヒトを入院させるのは他の入院している免疫不全に人にうつす可能性があるし、実際そうやってクラスターが起こっている。それでも抗原とXgeneが陰性ならば入院させているのは、その人が入院が必要だからであって、そうでもない人を親切からとはいえ、入院させるのはいかがなものかなと思ってしまった。しかし実施風邪で元気でも入院しないといけないような環境なのであれば、コロナ病棟以外で隔離するという前提を最初から用意しておいたらよいのかも知れない。そのあたりを知らずして、「なんで入院?なんていうのもダメなことだろう。」


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おもいやりと勇気の間で [つれづれ]

ある人は、成熟とは思いやりと言う事をのバランスを取れることであると言ったらしい。

そういう意味で、自分は看護師たちに対してバランスではなく、勇気のみ挑むか、もしくは思いやりというか自分が負けになることで対抗していたように思う。つまり、自分は間違っていない彼女達は間違っているという前提の中で、自分がそれを主張してもそれはマイナスにしかならず、自分の評判を落とすことがひいては患者さんへの悪い影響を与えるという結論の上に自分は負けるしかないと考えたのである。

 

団体の集団心理には勝てない。どんなふうに説明しても、彼らにとってマイナスである事は、たとえ患者さんにとってプラスでもマイナスに落とし込めてしまうという性質があると考えていた。だから、自分の抵抗はあまり意味のないもので、負けたふりをしてあとはじっくり観察し、自分がそれを変えられる立場になるまで耐えるしかない、そんなふうに考えていたように思う。

 

10年以上前のことであるが、こんなことがあった。看護師たちがありとあらゆる患者さんの手足をしばりつけているのを見て、「自分の親でもこのようにするのか!?」と強く言い続け、患者さんの抑制を解いて回ったことがあった。自分は悪い医師のレッテルを貼られ。それは患者にも波及し、おそらく私の主張とは違うところを批判され看護師たちからは総スカンと言うやつを食ったことがある・その時にその時は本気でわかってもらえると思っていたのだが、結果的には彼らの仕事内容をおかすようなことはいくら患者優先に考えたことでも理解されないということを知り、自分と同僚との関係の悪化は結果的に患者にマイナスの影響を与えるという結果に落ち着いた。もちろん、自分が仕事がやりにくくなるということ自体も嫌であったし、それを通しての患者さんへの不利益なのであるが。

 

しかし今考えてみると、本当にこの人達に抑制が必要なのであるかなどという話し合いをじっくりと、彼女らのリスクを充分考慮しつつ話し合うべきだったんだと思う。それも1回や2回でなく、何度も重ねて話し合う機会を持つべきだったのだ。それが思いやりと勇気のバランスというもので、言い換えれば成熟というものと考えて良いのだろう。

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