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標準と裁量 [医療]

高齢の初めての頭痛の人。右の後頭部で2度目の発作的な頭痛。現在は1/10まで軽快している。今何ともない空気を発散していて、対症療法で帰せそうな雰囲気が漂っている。解釈モデルはなんか怖い病気だったらいや。「大丈夫です薬出しときます。悪化したらいらしてください。」でおそらく済んだだろう。身体所見をとるとFNテストとかどうもはっきりしない。tandem gaitもできない。前者は右目が失明していることから説明できるし後者は70超えた人でスラスラする人はいない。そう考えると、画像をする理由がなくなってしまうのだが自分としては高齢の初発の頭痛というだけでもはや画像導入は決まっているだった。それでどちらかというと、その理由を正当化するための問診だったり身体初見だったりするので、当然導入となるわけだ。ここが医療費をそのまま請求するような国であれば、また話は別なのだが、ここは日本。over examinationが許容されているどころか、下手すると推奨されている国である、そしてそのことが、もしかすると非常に効率悪くではあるが誰かを救っているかもしれなく、正当化に一役買っているのである。しかし基準がスタンダライズされていない中ではそれがやり過ぎだったかすらわからないかもしれない。若い(もちろん自分も若いが)先生にとって何が大切かというとできる限り標準的な考えに近いところで自分の基準を決める努力を怠らないということである。日本という環境で、可能性が低くても検査ができたとしてもそれはしなくても良いかもしれないという自分の基準の中で決行するのであって、もしそこで陽性者が出たら自分の考え自体を標準とすり合わせて、変更しないといけないかもしれない。検査の適応を自分の中で決めるという思考は患者のためであり自分の診断力の向上のためでもある。そして、それを怠ることは検査の侵襲とコストを無視することである。もし小さな可能性さえ寛容されない世界なのであればその上で決行すれば良いだけのことだ。

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