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子育て反省文つづき [子育て日記]

多分一番大切なことは見る事、聞くことなのだろう。そして次に伝えること。

見ずに指導、聞かずに叱咤などはどんどん子供との距離が離れていき、「何考えているかわからん」などとほざきだす。反面子供は別に居場所を探し、それは悪さをしていなくてもいわゆる「愚れ」ということになる。むしろ悪さをするのは親に顔を自分に向けたいための信号なのかもしれない。

 

子供に対してのイメージを大人に迷惑かけないという概念から解放する。

女の子男の子のイメージに当てはめない。

自立した子とは?従順な子ではない。

 

子供たちのリーダーとは? 寄り添いが一番大切。その上で道標を示すことができる。

制限と自由から生じる責任を教える。指導ではない。

子供の感情をどっしりと受け入れる。

「なんで怒るの?怒るようなことじゃないでしょ?」はやはりダメかも。

大人の都合で発した言葉は子供に響かない。

 

おざなりほめ 人中心のほめでなくプロセスほめを

「絵上手だね!」がないとダメと思ってしまう。

チャレンジをやめる。ほめられることに終始する。

興味がほめられるかどうかに向いて実際の事象にむかなくなる。

褒める時は常に具体的に。。。

子供が言ってきたことにコメントするのではなく、共有する。

「かわいいね」もあんまり良くないみたい。

子供が見た目と自己肯定を結びつけてしまう。それで美の基準を保とうというプレッシャーを感じてしまう。

「自分で選べたね。」とか服を褒めたりするのが良いかも。

「上手だね」ではなく、良く観察してしっかり書けたねなど、、

「頭いいね」もイマイチかも、、毎日の積み重ねだねとかの方が良い。自信過剰になって努力しなくなるかも。

罰を与える叱り方

1)より攻撃的反発的な態度を生み出す。

2)力を使った問題解決法が正当化される

3)罰が反省を促さない

 

などがある。1)は罰を与えた親に怒りを感じより反発的となり、悪循環に陥る。

3)意識がいかに罰を逃れるかということに意識が集中するようになる。

 

などなどつれづれに反省文を書いてみた、そしたらその夜怪物に追われ、子供だけ助けて自分は死ぬ夢をみた。。


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ブログ再開だけど子育て日記に変貌

ブログ3年ぶりに再会だが、th_IMG_6565.jpg最近のこととなるとこうなってしまった。


 


子供が将来こまらいように、などというものすら、本当は、


親のエゴなのかもしれない。


自分 は、もし子供を しかる (思いあまっておこってしまっても)


時は、それが子供のため ならば許されるとしていた。


しかし.それすら実は、親の自己肯定であり、本当の意味で子供のためになんでならない。というこが想像できてないようである。


 


事件は.1年前の 8月からおきていた。


自分は、子供 が小学校へ入る、準備として、「管理」というものを教えようとしていた。


ふで箱に 入れるものを写真にとり、ラミネートにして目立つところに置いた。できる限り声をかけ、毎晩 眠る前 にさせ、習慣付けようと した。どこか で根気かつきて、でもそれは、おざなりに なっていた。


小学校に入り、子供が自分のもの を管理できな­い ことが明るみに出ることになった。


筆箱のものは次から次へとなくなり、そのことを本人はあまり重大なこととは感じていない様で、親たちが、促すのを避ける傾向が強く、「学校に置いてあるから大丈夫」という反応が多かった。家で必ず鞄の中身を出すことを提案しても、その意味が理解できない様であった。


 


父はこれはなんとかしないと、学校生活で皆より遅れをとるのではないか?また、整理整頓は生活の基本であり子供のうちにこれが身につけられたら、一生いろいろなところで、彼女の力になってくれるのではないかと考えた。実際学校で帰る前に筆箱をチェックするんだよと毎日の様に言っていた、「そんな時間はない。」などの返事が多く、実際忘れて、多くの鉛筆消しゴムをなくした。(学期末に少しはマシにはなっていたが)


 


自分などの今を見ると、放っておいて育つものではないのではないと思える。


そして今年。夏休みに入り、今なら徹底的に習慣化させられるチャンスと考えた。


たった一つのこと。使い終わったら、筆箱に入れる。こんなことがそれを監視する親の前でできないはずがないと考えていた。


とにかく、理屈抜きで簡単なことから始めて、習慣化することでその便利さを知り、のちにそれをするのが当たり前の人間になっていくのではないか。できることは少しずつ増やしていけば良いと考えていた。


ところが、鉛筆消しゴムの出しっ放しはよりひどくなった。


消しゴムがなんでここにあるの?「パパが置いたからでしょ」的な攻防が続けられた。


その前の食事中の姿勢を厳しく叱ることで矯正に成功した自分は、勢いに乗ってこちらもできる様な気になっていた。


その晩もひどく叱り、これからどうするのかを言わせ、涙ながらにこれからは使い終わったら、筆箱に入れます。と言った30分後に同じことをやらかす。と言うのが3日連続で展開された。


 


父は叱るところか激烈に怒っていた。どんなことをしても習慣化させないといけないと考えていた。学校が2週間後に始まってしまえばもう手出しできなくなる。そんな焦りがあった。


 


ついに10回できるまで話をしない。というとこまできた。


ここで習慣化に成功しなければ今までやってきたことが水の泡になってしまう。そんな心持


ちだった。


キチンとしている。整理整頓では親を超えた小学校高学年を想像した。


今なら親の力で矯正できると、感謝などされなくてよい。親の失敗は受け継いで欲しくない。


そんな気持ちだった。


発展心理学的には外発的動機というらしいが、それが本人にとって本当の意味を持つこととは思わないが、それがいつしか内発的動機に変わると信じたかったし、今でも信じたいと願っている。学校が始まり、手の届かないところで、内発的動機を待つなんてとてもできなかった。先生には自分のことができないのは2割しかいないと言われ、怒って矯正できるのは2年生までということを言われたのも背中を押したのであろう。


こうして書いてみると、やはり自分は間違っていなかったような気になってくる。


結局わが子がそうなれば良いのだから。


しかし、今冷静に考えてみて、そうなれば良いの「そう」はなんなのだろうか?


整理整頓ができて、勉強もキチンとできて、宿題を忘れない。身なりもいつもキチンとしている。


わが子ももう6歳も半ば。その様な子供になる様に生まれてきたのかどうかは、少しずつ表面化しつつあるのではないだろうか?それが親が良かれと思うものと一致しなくても仕方がない。そういうじきにもう差し掛かっているのだろうか?


もちろん「そういう」素因があるかもしれない。でもそれは親がイメージするものではなく、子供の内側から表面化してくるものではないのだろうか?


子供のそういう部分を見ずに立派な武器でも持たせてやる様な親心とやらで、やっていることは「操作」なのかもしれない。


食事中姿勢が良くなったのも実は親の前だけになるかもしれないし。


 


モンテッソーリ教育は罰も褒美も子供には必要のないものだという。


しかし学年が進むにつれて色々なものに時間の制約が出てくる。


毎日の授業、宿題。その様なもののレールに乗せておくのが親の務めなのではないかと思ったりもする。


それともまだまだそういう時期ではないのだろうか?


例えば、彼女はとても絵が上手な子だっったし、とても独創的な絵を割と小さい頃から描いていたように思う。


ところが夏休みの宿題で毎日絵日記を書く様になってから絵がつまらなくなった。描写力はあるが、独創性がなくなり、自分の内面から出てきたような絵ではなくなっているのである。


 


何かを与えないと発見できないこともあるし、やってみないと進歩しないこともある。


例えば、父が選んだ映画でも彼女らは喜んで観るし、ハマれば何度でも観る。


何かを与えたり、させたりすることもある種進歩の一つであるし、社会の枠に入れない時困るのは本人なんだろうなどと考えてしまう。そして枠に入っているからこそこの社会でキチンとした地位(キャリア)を形成し認められることで、生きて行くことができる。


そういう部分も確かにあるのではないだろうか?


 


発展心理学の本には「子供は親の愛情を失う恐怖から逃れるために行動する」的なことが書いてあったし、確かにそういう部分はあるがモンテッソーリは「愛情をエサにしてはならない」といい、それを条件付き接し方といい、まさしく自分はこれにより子供の行動をコントロールしようとしていた。


では無条件の接し方で、社会の順応できる人間に育っていってくれるのだろうか?


もしくは、具体的なことを取ればいつか内発的動機が作動し、自分の周りの整理整頓ができるようになるのだろうか?大人になってからもできない両親ともがここにいるというのに。


かたや母親は厳しく指導されてできなかったクチ。自分は全く放置されてできなかった。そして今子供たちの見本になろうと必死になっている。


見本がバッチリなってそれがとても楽しそうなら、そういう方向に道付けていけるのだろうか?


 


しかし少なくとも自分が注ぐ愛情の調節で子供をコントロールしようとするのは良くない気がする。奥さんはそれをしていない気がする。ただ、真っ直ぐに嫌なことはダメ、快適


なことはOKって感じではあるが。それでも愛情の出し惜しみを鞭に使ってはいないように見える。


その点自分は全面に出して、できるまで話をしない。などとのたまう始末。


 


子供は親の愛情を欲している。だから自分の行動が悪いとそれが得られないなら愛情を得るために良い行動をしようとする。


 


良い例が、ジャーナル(日記)描かないと絵本読まないよ。これでジャーナルは書くようになるが、子供はジャーナルを描かないと親の愛情が得られないと考えるよう。


子供はダメでも親だけは味方でいることで安心して育つことができる。だから愛情をエサにするような行為は子供の感情も不安定にしていくのではないだろうか・・


 


また条件付き接し方は、世代を通して受け継がれるらしい。これは恐ろしい。自分たちの代で止めなければならない。


では子供を放任すれば良いのか?自分は中学の時に全国でもトップクラスのスイミングスクールに通っていたが、それはもう恐ろしいくらいのスパルタで、いつもその指導法に疑問を持っていた。だが、小学生たちは無邪気に猛練習に耐え、日本でトップの選手が育った、ところが中学を過ぎる頃から急激に全国レベルから取り残されるようになる。このことから、強制は小学校までは通用するのか?などと考えていたが、、結局自らの動機を勝ち得たものが中学高校とトップになっていくから結果的には小学生で強制的に行っていた指導法が間違っていたことになる。


 


また、同時期のアメリカ人たちの練習の自由さに驚き、どうしてこんなに練習している自分たちが彼らに勝てないのかと絶望的な気持ちになったこともよく覚えている。


また勉学に関しても、小学校4年生頃までは親とともに強制的に勉強していたところが5年生頃から興味の対象が移り、+あまりうるさく言われなくなった(おそらく親が指導できなくなった)こともあり学力はみるみる低下したことも、関連した示唆があるように思う。


 


 


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