母2回忌
母が死んでそろそろ2年になるがが、いなくなってからの方が母の存在を身近に感じるようになったように思う。それが母が生きた証の1部になると考えてのことなのか、自分の寂しさをまぎらわそうとしているのか、それとも自分の死への恐怖の身代わりとして生きることの意味を自分の中の母に見出そうとしているのか?それは自分でもわからないが、少なくとも子供の頃よりはヒトが生まれた時からおわりが備わっているということを少しずつ受け入れ始めているのを感じている。そして、自分の子供たちができたことでより救いをもらっているようにも思う。
母がどんな人であったか、今考えてもやはりわからないことがたくさんあるが、彼女の”何か”が自分の中に”何か”として息づいているのは確かなんだろうと思う。それは、美術館に行ったりとか知識とかそういうものではなく目にも見えず、感じることすらできない何かなんだろう。そしてまた、自分の中の何かがどこかに残って欲しいと言う願望が自分の中にある。
たとえ娘が大きくなって自分が想像していたヒトと全く違う方向に進んだとしても何かが残っていると信じたいとし、だからこそ今一生懸命向き合おうとしている自分はやはり自分のための自分。
もちろん本能的に娘のためというものもあるがそれを区別することにおそらく意味はなく、娘という特別な存在は娘のためと自分のためは同義と言っていいかもしれない。引き継いでいくものの中に自分の親やそのもっと上の方から流れてきたものがどこかに存在するって信じようとするのはファンタジーかもしれないが少し楽しい気もする。