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テネット [感想]

テネット

研修医に勧められて観てみた。

なるほど難解な設定で、なかなか理解しにくいものではあり、それを作者がなげかけ、視聴者が理解できるか?というコミュニケーションの場なのかな?といいうのが自分の感想。ストリーリーは設定のためにマスクされつつも、それほど複雑なものではなく、友情、恋愛、黒幕、オチというように、バランス良く盛り込まれている。「僕は明日昨日の君とデート的する」な(笑)(ちなみにこの映画、よく知っている場所が舞台だったから見に行ったのだが、京都に住んでるヒトが終始関東弁のいうのが気に入らなかった理由。)(「きょうの出来事」の田中麗奈みたいには決して出来ないという判断かしらないけど、、、)

 

テネットに戻るがまだ上映中なので多くは語らないが、監督と視聴者が会話する映画というのが自分の勝手な解釈少なくともノーランさんのファンには待ちに待った新作と言えるだろう。

もしこの映画内の理論が本当に今の物理学の最先端をベースにしているのであれば、自分は全く理解していないということになるし、何回みても理解できないだろう。

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何度もはなしていることではあるが [今日話したこと]

直腸を患者に行うデメリットはなんでしょうか?1)患者に不快な思いをさせる2)ラポールが壊れるかもしれない3)時間がかかるめんどくさい 4)前立腺炎であれば痛い思いをさせ、尚かつ菌血症にさせるかもしれない。しかし前立腺炎を疑っていれば直腸診をしないかもしれないし、見つけられずに発熱の原因がわからないこともまた大きなデメリット。


そしてラポールに関しては、病院がもつ直腸診文化や患者の心構えや説明で変わってくる。


 


ではメリットはなんだろう?そのメリットがデメリットを上回るのならば直腸診は行なえばよい。とっても単純なことでそれが自分達の仕事。そしてメリットの大きさはそれぞれの医師が考えればよい。日本では直腸診を省略しても、責められない文化がそこかしこにある。たとえそれが患者に有益なことであっても。


 


問診耶身体所見で得られる情報のなにをどれだけ集めればその検査の適応となるかということを見極めるのが自分達のおおきな1つの仕事。そしてもう一つは、検査の結果を解釈する事である。


 


なにかが否定しきれないと言ってしまえば全てが否定しきれないわけで個人のことを考えると感情的にできる事はやってあげたいと言う気持ちが働くが、そのような思考で仕事をする事は若い医師は自分達の進歩を妨げることにもなるし、それが結果的に長い目でみて患者のためにならないかもしれない。


 


そういった±のバランスの取れたところで検査の特性とを合わせて考えた上でバランスの取れたところでその適用を決めるそういう能力をつけることが我々の使命であると考える。ただそれは個人の経験だけでは編み出すことができずエビデンスと合わせて決定していくことになる。


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気がつけは彼岸花


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母が他界してから(2年目は3回忌らしい) [つれづれ]

自分は母親の存在に対してある意味無頓着だったように思う。なにがしかの言葉で人生を導いてもらったという記憶もなく、なんらかの良い行いの手本を見せてもらったという意識もなく、むしろ、ひとりの女性としては、批判的に見ていた部分もあるように思う。

しかも大学に入ってからは基本的には離れて暮らし、 こちらから定期的に連絡するということもなかった。

母親がガンにになったと知ったその日、娘が生まれた。この日母が死んだ夢をみてから本当にいなくなるまで、自分は母親の夢を見ることはなかった。

むしろ、ガンであることを心のどこかで否定しつつも、どこかあきらめに似た感情で、そのことから目をそらそうとしていたように思う。それも母に対する批判的な感覚をこれから訪れる信じがたい状況に対する盾するようにして生きていたように思う。

 

なんらかの深い話をすることもなく、母が逝って自分はここ1年で5回母の夢をみた。

ひとつめは本当は生きていて、それを喜んで父親に報告する夢。

二つ目は母親が苦しんでいる姿。

3つ目は忘れてしまったが、4つ目は、泣きじゃくる自分に母親がふたりの自分の2人の子供を指して、「橋本さん、この子達に慰めてもらいなさい。」

5つ目はつい先日だが、幼い頃住んだ向島の家の2階の自分の襖から母親が顔をのぞかせた後、階段を降りていき、そのあとをおって階段の下半分まで降りた時点で母親が死んでいる事を思い出す。妹のいつもいた部屋へ行くと母が言葉もなく子供のようにわらって妹とともに横になっている。「しんでるんだよな」それなのにこんなに現実みたいに、触ることもできるんだな」というと妹も母親もなにも言わず、笑っている。母親が愛用していたニットのショールをこれもらっていい?というがやっぱりやめておこうと思い直し、母親の肩にかけたところで目が覚めた。

 

ただ存在するだけで、こんなにも大きな存在であることに気づかされる母親というものを今更ながら、夢が教えてくれているようで、納得のような、後悔を伴うような、不思議な経験である。

母親が亡くなった後でさえそれを受け入れられなかった自分が意識の下で少しずつ受け入れていった様子が夢に映されたのだろうか。


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母2回忌

母が死んでそろそろ2年になるがが、いなくなってからの方が母の存在を身近に感じるようになったように思う。それが母が生きた証の1部になると考えてのことなのか、自分の寂しさをまぎらわそうとしているのか、それとも自分の死への恐怖の身代わりとして生きることの意味を自分の中の母に見出そうとしているのか?それは自分でもわからないが、少なくとも子供の頃よりはヒトが生まれた時からおわりが備わっているということを少しずつ受け入れ始めているのを感じている。そして、自分の子供たちができたことでより救いをもらっているようにも思う。

 

母がどんな人であったか、今考えてもやはりわからないことがたくさんあるが、彼女の”何か”が自分の中に”何か”として息づいているのは確かなんだろうと思う。それは、美術館に行ったりとか知識とかそういうものではなく目にも見えず、感じることすらできない何かなんだろう。そしてまた、自分の中の何かがどこかに残って欲しいと言う願望が自分の中にある。

 

たとえ娘が大きくなって自分が想像していたヒトと全く違う方向に進んだとしても何かが残っていると信じたいとし、だからこそ今一生懸命向き合おうとしている自分はやはり自分のための自分。

もちろん本能的に娘のためというものもあるがそれを区別することにおそらく意味はなく、娘という特別な存在は娘のためと自分のためは同義と言っていいかもしれない。引き継いでいくものの中に自分の親やそのもっと上の方から流れてきたものがどこかに存在するって信じようとするのはファンタジーかもしれないが少し楽しい気もする。

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承認欲求 [つれづれ]

私の妻は車運転しているときにブレーキをたくさん踏むのをとても嫌がる。どうやら下手な運転手と後の誰かに思われたくないようだ。そういう考えを反面教師にして自分はたくさんブレーキを踏むことで安全性を保つという主張をしているのだが、これもまた承認欲求の1つなのかもしれない。

 

仕事をしていても常に純粋と言うものは存在せず、ただ誰かに認められたいということの他に、認められることによって仕事仲間との連携がうまくいき結果的には患者さんにプラスに働くという、理由のもとに承認されようとしたりしているが、その裏はやはり承認欲求が存在しているのかもしれない。

 

自分も歳をとってなんとなく自分のなかの純粋に誰かの為に役に立ちたいという気持ちに没頭している時と、何らかのパフォーマンスとの区別がつくようになってきた。もしくはその両方を持っていることに開き直ってきたのかもしれない。こんな方法で自分のことを少し好きになるという事をある種の幸せと言うものなのかもしれない。 

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資本主義?社会主義?右?左? [つれづれ]

1980年だったかロサンゼルスのオリンピックが宣伝費の意味で成り立ったと言うことに驚きと疑問を感じた覚えがあるが、今なお宣伝と言う物がいかに大きな割合を占めるか、それは下手をすると実質を超えてしまっているのではないか?そして多くの人が、本質見抜く、とうより物の良し悪しの差が少なくなった分、その差を見分けることができなくなり見分ける事に諦めてしまっているがために宣伝や他の人たちの動向に左右されるのではないだろうか。それが本当に良い世界なのかどうか自分には甚だ疑問である。

 

いま、自分自身は利益が上がら上がらなければ潰れてしまうような世界にはいないが、病院でも利益を上げなければ潰れてしまう上層部は言い張っている。(あまり信じてはいないし、むしろ社会に貢献できないようなら潰れてもいいと、自分勝手に思っているが、)

 

資本主義と共産主義とか社会主義とか右とか左とか自分にはよくわからない。資本主義とは大きいことはいいことだの世界。つまりすべての目的が利益に向いてしまう傾向をすべからく感じる。

少なくとも資本主義が全て正しいとは思ってではいない。

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振り分け [つれづれ]

 ひとつの施設で内科専門医と名乗るヒトばかりが内科を構成している場合、案外どこの科にも宛てはならないヒトや、ひとつの科で対応できない疾患はうまくシェアされていたりする。(例えば誤嚥性肺炎などだが、結局若い衆が診ていることが多いのだが)そしてそのような症例は高齢化に伴ってどんどん増え続けている。


 


そこに総合診療科なるものが入ると事態は大変なことになる。


たくさんの科でシェアしていた数が弱小の総合科に流れると、その精神的ストレスとともに多大な労働が当たり前のように課せられるようになる。


 


どうやら、多くの病院では科ごとの仕事の評価となっており、一人の科も8人の科も同列で売り上げを評価される。少ないところはヒトを集めていないのが悪いというわけだ。


これは評価法間違った評価法でありその理由は大きく2つある。


 


ひとつは、科ごとの評価であるが、上記のような方法がとられていると病院全体としてどのような社会貢献ができるもしくは、病院内でもスムーズな運営が行えるバランスを構築することができなくなる。


また、本来ヒトを集めるは医師個人の仕事ではなく上層部の責任転嫁とも言える。


 


もう一つは、売り上げや外来数や入院数という数字による評価に依存すると数字のみに依存すると理念や使命がしっかりとある医師でも少しずつ経営方面を患者の利益よりも優先させてしまう傾向になってしまう。


 


現在の多くの病院の医師の構成は大学がどれだけヒトを出してくれるかにかかっており、そればバランスではなく出来るかどうかの縦割りのみの思考で行われている。


よって人数が少ない科は売り上げがこれだけしか出せていないよという病院から大学へのアピールが必要なのかもしれない。


 


「総合医がいた方がよい。」は他の医師のためであれば長くは続かない。それが自分達の医療を良い方向。つまり患者のためになる方向に向かわせるという考えではたらくのであれば、総合医であれ、専門医であれ、患者をどう振り分けるのがよいかが見えてくるのではないだろうか?


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終了2分前の新患 [つれづれ]

暗黙の了解と言うものがこの世には確かにあるから大抵の場合どこかうしろめたいことがあるような気がする。医療の場合ほとんどの病院で利用者の数が必要な労働に足りていない今、基本的に自分たちの仕事と患者へのサービスは相反関係にありそのジレンマの中で私は私たちは働いている。


 


この辺が施設内他職種間の構想になることが多々ある。医療を進めるのは大抵医師ではあるが、そのことが他職種の仕事を圧迫する時その人たちは自分の仕事が圧迫されるのでやめてくださいとは言えない。かわりに、表面的な内容でその行動を批判し、その流れを自分達で共有しようとする。そうして対立していくことになる。


 


20年近く前になるが、患者の抑制に反対し続けたことで、総スカンを食ってたこともそうであるし、日常内容を見ずに診療の時間長さのみをよく批判されることもその例だろう。その両方とも直接それが悪いとは言われない。


自分もいろいろと大人になり、ゆずれる範囲が増えてきたのではあるが、どうしてもゆずれないときも、対立という形をとったとたんいい方向に流れる可能性を捨てることになる。この年になってやっとそれが少しずつわかってきたところ。


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今日は終了2分前の急性胆管炎でした。


 


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日本が好き?

日本は約束を守らないとずっと言っているが、韓国の言い分をあまり聞いたことがないので、自分たちもきっとある程度は日本国と言うものに洗脳されてるんだろうなぁと思うが、、、やはり同じエイジアンとしてライバル意識や嫉妬などの入り混じった気持ちが向こうがこちらにあるのは事実だろうか。にしても大部分は(今は)文さんの政策という多くの意見には賛同している自分がいる。


対して日本はアメリカにむしろ感謝し、そして尊敬や模倣したりしているのではないだろうか。あんなひどいことをされているじ事実今されている地域もある。これを比較することはできないのか


もしれないが、実際戦争はお互いにひどいことをしているのは事実。


 


それなのに、70年たったいまでもしつこく一方的に責められているが、それはただ敗戦国だからだろうか?それともあやまりが足りない?それとも負けたくせに大きく成長したから?ドイツはどうなのだろう?ナチのことを責めるのは当然として今のドイツを責める論調は見当たらない。


 


この現象は人種や文明として我々が劣勢と言っているのと変わりないのではないだろうか。まぁもちろんアメリカが日本に対してした事は良い部分もたくさんあり、それによって日本社会がこの、「力(武力)関係で成り立つような世界」の中で割と良い方向に進んだのは感謝すべきではないかと思うが、その中には洗脳的なものとか利便的なものも含まれているのであろうが。


 


日本が韓国に対してどのようなプラスの事やどのようなマイナスのことをしたか自分たちはわかりようがないし、そこにはどうしても感情が入ってしまうしなぜ負けたと言うだけで間違っていると言われなければいけないのかって言う考えも確かにある。


 


自分自身は本当は丸腰がよかったのだが、守ってもらっていることが正しい事だとしても、ここに生まれ育ち、何かにある程度の洗脳をされていたとしても、今の日本に割と満足しているということがしあわせというものでそれが一番大切なのかもしれない。


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コムラサキっていうらしい


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薬剤師は医療にあまり参加できていない。 [つれづれ]

薬剤師は医療にあまり参加できていない。

今薬剤師のテレビ話題になっているようだが、自分は見ていないがかなり医療の方針決定に介入してきているらしいし、医者の間から批判が出ているような話も聞く。自分の知る限り薬剤師は、医師の決定に正当に介入できるような教育も受けていないし、システムもそうなっていない。おそらくいろいろな大人の事情に翻弄されているのも事実だろう。

 

例えば医薬分業が進められて薬剤師は病院の医療から遠ざかることになったが、そのようにしようとした理由は医師が薬価差益で儲けるのを防ぐのが目的であり、結果的には製薬会社が徳をすることになった。

 

また保険制度が正しく患者の治療のガイドとしていない事はエビデンス的に事実であるが、薬剤師のほとんどが保健精度の奴隷でありその後立ててでしか医師の方針に異議を申し立てることは許されていないし、そもそものよりどころとしている理論が全く違うので議論にもならない。

薬剤師はもっと医療に介入するべく、医師達の方針に加わることができるポテンシャルをもっているはずなのに、なんともったいないことだろうか。

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