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人類の進歩? [つれづれ]

20年以上前だったと思うが,


ダムの放水で流れの真ん中に取り残された人たちが助けを呼んでいるのかかわらず何もできず、そのまま全員が流されるということがあったが、今でもあの事件を時々思い出して何とかならなかったのかと思う時がある。


 


どういういきさつであのようなことになったのかは知らないが、放水すると危険だと言う注意喚起は何度も行ったという事は報道されていたように思う。


 


しかし問題はそういうことではないような気がする。今日文明が発達していろんなものを自分達に役立つように作られて来たが、それらを、十分にコントロールできているかというとそうでもない事例がたくさんあるのではないだろうか?一番単純な例が原爆とか原発。交通事故もそうかもしれない。人類の進歩とやらなんてもっとゆっくりでいいのかもしれない。


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自分が以前作っていたものを100番洗練させた感じだった。


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7才になった我が娘へ [子育て日記]

まずは大きな病気も怪我もせず、7才になってくれたことに、何かに感謝したいです。神様かな?そして僕たちのもとに生まれてきてくれたこと、君にサンキューです。


いままでお互い生まれ持った引力によっていろんなことを共有してきた。映画、ディズニー、読売らんど、植物園、博物館、美術館、行儀作法、私物管理、散歩、食事、お受験そして自粛生活と。


これからは、少しずつ人としんて考えることを共有していくのでしょう?だからもう一度ウェルカムです。


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 〜嫁の作品〜


 


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 [つれづれ]

昨夜久しぶりに母の夢を見たが、夢というものはつくづく不思議なものである。寝る前に一瞬思い出したからなのか元カノが夢に登場するのだが、舞台は高校一年まで暮らした家(99%家ならココ)今でその子といるのだがお勝手には母がいて牛乳を取りに行くのだが、母は元気でその事を何も不思議に思わない自分がそこにいる。夢は潜在意識が表面化しかかったものという解釈があるが、その時の自分は明らかに母が死ぬ前の自分なのである。母は何か失敗していたが、見知らぬ冷蔵庫のおかしな場所に牛乳は発見された。

その後その元カノには自分の姉などがやってきて深くお礼をいうのだけれど、自分はなにを言われるかオドオドとしていたのだが黙って額をくっつけんばかりに頭を下げている人たちをみて少しほっとするのだった。

そこには母を現れず、このあたりが自分が母の死を受け入れそれを誰かにいやしてもらっている。それを自分の兄弟たちが感謝しているという潜在意識なのであろうか?

 

とにかく、その時の自分、今と違う自分が自分なのに意識としてそこにいる、ってなんて不思議なことだろうか。


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病院経営 [医療]

自分はこれまで救急患車を断るような病院は最初の病院を覗いて1度も選択していない。逆を言えば、今まですべての病院は自分でその働き場所を選択してきた。決してそれは自分が献身的でマザーテレサのような一生を医療のみに捧げるというような性格だからと言うわけではなく献、単に医療という活動を行うにあたって、自分の身を医療と言う理念に反するもので汚したくないと言う気持ちが強かったように思う。だから、他の人が断って余裕のある環境で医療を行うところで少しだけ働くという今に、甘んじていられるのだと思う。資本主義は基本的にプラス。つまり利益が多ければ多いのが正義と言う風潮があるが、人類も少しずつ成熟しSDGsなどという考え方も浸透し始めておりただ利潤を生むことだけが企業や組織の目的ではなくなってきている中、そういう企業こそが生き残れる時代になっていくような未来を夢見たりしている。

 

そしてその先陣を切れるのが病院ではないだろうか?なぜ病院が病院と言う役割に反したような方針で経営なければならないのか?それほどまでに利潤を、生まなければならないのか?それはずっと以前から自分の大きな疑問であった。

 

自分たちは何をするにしてもそれが患者のプラスになりそしてなおかつ自分たちの利益になるつまり患者の利益は必要十分条件であり自分たちのが生き残るという事は必要条件ぐらいに考えていたほうが良いと経営者でない人は考える。つまり患者のために頑張らない病院はつぶれたほうがいいというのが極論かもしれないが自分の勝手な意見である。

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怒る 愛する [子育て日記]

今日はお勉強も遊びもすべて自分達に選ばせるという方法をとってみた。そして勉強は親が30分おきにどちらかについていっしょにするという形にしてみた。

つまり、親が付いていない時間帯はひとりでできるものを選んでもらうという寸法。

もうひとりの子を見ているとき、姉はあまり集中していないようだった。集中していなければやる意味ないから止めなさいという自分の常套句は本心から言っているのだが、本人は見放された感じがするようでそれでやめることはこれまで一度もない。

終わったとき、ほとんどしていなかったね。ときくと「やってた」という返事。ちょっと向きになった私は「どこやったかみせて?」と聞くと「ここから」と指したところが1カ月前(9/4)に印をつけたところだった。

こういうことがにがてな自分は本気で怒ってしまった、しかりもできず、ただ口をきくのが嫌になった。我が娘もそれに気づいて自分に近づかないようにしていた。

数時間たって遊びがおわること、呼び寄せて。

パパと君は何でつながっているの?そればお勉強をする、しないよりずっと大切なものだけど、それを壊そうとしたんだよ。

パパの君を信じる心を傷つけたのだよ。

娘も泣いていたが自分も涙をなぜかこらえていた。そういうわけで仲直りにはなったのだが。

きっと信頼関係がいかに大切でこれからもそれを守らないといけないとは理解出来ていないと思う。ただ、パパは自分の味方でそばにいてくれてよかった。というところだと思うが。きっとそれだけは父の方が裏切ってはいけないことなのだろう。というのが自分の結論。

今日みんなで「ハイジ」スイス版をみたが、ペータがハイジのお弁当を勝手に食べ、しかも山羊が食べたんじゃないの?なんてすぐわかる嘘をついたけどハイジはとがめなかった、その後、これから半分あげると言った。それを見て信頼関係とその場しのぎの身を守るための嘘は別のものなのだろうか?という疑問がわき出てきて、7才の子に対する自分の対応は果たして正しかったのかまた不安になってしまった。

嘘をついていたらへーという感じで見透かしておくというように今まではしてきたが、そこを「信頼関係の構築」もしくは「不安という罰」に変換するのはまだ早いのだろうか?

ipadに勝ってにゲームをダウンロードしていた時も1週間使用禁止後、そのアプリを入れてあげて、いつ使うを決めるということにしたが、これは快楽へ流れてしまうのを抑える力を与えるためで、嘘をとがめたつもりはなかったのだが、、、

起こってしまうのはどうしてもある。嘘に関しては少し過敏なところがあるかもしれない。

だけど以前反省したとおり、後になってもいいから「愛しているから」とかでなく「愛している」ことをきちんと伝えることが重要という自分なりの結論だけは大切にしようと思う。

 


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交通事故 [子育て日記]

情もしくはその時の興味と言ってよいかもしれません。そう考えると1人で道を歩かせることすら恐怖に思えてきます。では東京で暮らすにあたって小さな子供たちを交通事故から守るためにはどういう訓練や指導したらよいでしょうか。

 

外国での自動車教習は普段道で行わないような急ブレーキの体験などをさせるという話を聞いたことがありますが、そういう実践的な指導を子供にもできたらいいなと考えています。具体的には道路の向こうから呼んでおいて、横切ろうとするのを注意するとか、ボールを転がして拾いに行く前に確認をさせる癖をつけさせる。止まっている車はドライバーと目を合わせる。曲がり角は必ず一旦止まる。少し回り道しても横断歩道を使う。

 

そんなことが完璧に仕込めたら、確率は事故に遭う確率はだいぶ減らせるのではないでしょうか。家に閉じ込めて外出は必ず親と一緒というのもいつまでもできるわけでもなく、そんな箱入りにしてもいざ、大きくなったときにより事故の確率を高めてしまうような気がする。実際自分自身が子供の頃にとても無鉄砲なことをして交通事故にあった経験から本当はとても怖いです。

確率はゼロにできない肺塞栓はSAHのような交通事故。ちゃんと全うしてくれることをいのるばかりです。親は出来ることをやるしかないですから。

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今日新しい学生がSMCにきました [今日話したこと]

話が脱線しまくったので要点が分かりづらかったかもしれませんが、大まかに話すと1)自分がこのプログラムに参加に至った経緯と2)自分がどういうことを伝えたいか3)PBLの方法4)それから自分の師匠の話。5)アメリカの医学教育のはなし5)臨床で常に問題になる1つのジレンマについて話しました。

 

2時間も話したけども、まぁとにかく1番大事な事は自分が伝えたい事はまた身に付けてほしい事は詳しい知識ではなく、臨床におけるプロセスということです。それが行く行くは、臨床決断力につながっていけばと考えています。気軽な気持ちで、つきあってもらったら、いつの間にか力がついていてそれをいろんなことに応用出来る。というのが私の考える理想です。

 

基本的に臨床推論の基本的な方法として、情報→推察→推論に紐付いた情報の獲得→推察されるものの確率変動のスパイラルを回りながら診断に行き着いていきます。

 

つまり、情報と情報の紐付けがうみだす想起と、その情報の何かに対する影響力を知っていることが臨床力の大きな1つのポイントだと考えています。

つまり意味のある形で情報が紐付けられることが臨床決断するためのネックとなるのです。

例えば33歳女性頭痛と62歳男性頭痛ではそれだけで鑑別疾患が大きく違いように、疾患の頻度も重要でです。

またそれから、診断に対する問診、身体所見、検査の複雑な紐付けのネットワークを形成していくことが必要で、それぞれの情報の診断に対する影響力も重要です。

 

その辺を身に付けるためには実際に経験するしかないように考えています。ただ経験するにしてもただ経験するのではなくきちんと正しいプロセスにそって診断を導く訓練を繰り返す必要があると思い、臨床ですべてのことができるとは限らないのでそのシミュレーションとしてPBLが存在すると考えてください。

 

今日の話のなかで私が一番印象に残ったことはSAHの診療とCTの基準のはなしを中村君がその難しさを理解していたことです。検査はただ選ぶものではなく、その診断の確率をどれだけ変えられるかと、検査の及ぼすマイナス面、また検査の閾値と的中率とのせめぎ合い中で検査を決定するのです。

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フォームとは [つれづれ]

走るのが速い人見はあまり足音がしないことに気づく。きっと足首や膝に負担をかけない走り方なのだろう。また、つま先から着地していることも関係しているだろう。


 


素人が真似してみるが、走れば走るほど効率よく走りたくなり足が空中にある間に力を抜くようになる。そうするとどうしても着地に対する準備がおろそかになり、大きな音を立ててかかとから着地するようになるが、膝や足首や膝そして近くのに負担がかかるように思う。その2つのバランス高次元で調和させるのが早い人の走りなのであろう。


 


走るということは人間にもともと備わったものだからフォームとかないと思っていたが、走りながら、自分の身体と対話するといろいろなことが見えてくるし、本などに書かれているフォームを模倣するよりおもしろく、またそうやって作り上げたフォームの方が自分に合っているのかもしれない。


子供のころの水泳ではそういう風には考えずただ、正しいフォームを追求することが速くなるすべてだと思っていた。


 


また筋力のバランスまでもがフォームに影響をあたえ、それによってよいフォームに導くということも今ならば理解出来る。


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西新宿のカレーやFISH


 


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医療には知らないことが罪であることがある。 [今日話したこと]

医療には知らないことが罪であることがある。

 

10年以上前になるが、20台の女性が脳炎の診断で1年以上痙攣をし続けていた事があった。自分としては、痙攣自体が脳に障害を及ぼすという観点からもっと強く投薬して結果人工呼吸器にすることが唯一の出来ることと考えていたが、主治医は母親と話して、痙攣が続いていることを寛容しつつも諦めないというスタンスを取っていた。ある日神経内科の先生が卵巣はどうなの?と言い出してなんのことかわからなかった。

卵巣腫瘍を摘出後患者は普通に歩いて帰宅したのだ。自分自身は母親に諦めることも選択と話していただけに、退院の挨拶を笑顔で来られたことはとても身にしみたのを覚えている。今や有名になったNMDA脳炎であった。

臨床医の間でああでもないこうでもないと大声で議論されていることは、それが大きな声であるほど、ああでもこうでもあまり大差なかったりする。知っているの知らないのでドラスティックは結果がかわることは、臨床医として絶対し押さえておくべきことであり、しっかりと周知されるべきことでもある。

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病院ができること [医療]

以前発熱肺炎疑い患者を入院させようとした時。

病棟主治医に連絡したところ、PCR結果が出るまで隔離でお願いと言われたが、外来看護師の猛反対にあった。隔離入院させると、看護師を1人多く導入しないといけないからというのが理由らしい。それは病棟看護師の業務を鑑みた外来看護師の優しさではあるが、どうだろうか?

 

業務と実務のバランスの問題なのだろうが、このあたりが統一されていないとクラスターがなぜ発生した理由や発生した時に次の策をどう変更しればいいのかがわからなくなる。

理由がわからなかったとしても、それが病院対策の問題なのか?それとも外的な理由なのか位は判断できるのではないだろうか?

 

案の定クラスター発生後は全員がいかなる時もゴーグル装着の義務となったが、それが原因と考えられたからそこを変えればよいというものではないと思う。

クラスターは防げない。その前提の上で病院として出来ることをするしかないし、大切なことはそれが職員全体の理解を得て、その時その時のスタンダードに即していることではないだろうか。それでもクラスターが発生したのであれば、毅然として今までの対策を続ければよいのではないだろうか?

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