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美術鑑賞 [つれづれ]

きょうは、SOMPO美術館に出かけた。印象派からエコールドパリまでを時代を追って展示してあった。いつも美術館へ行くと、音声ガイドを聞いたり、作者は誰だろう?とか何年くらいに描かれたものだろうか?などと思いを巡らすのだが、今回はまったく左脳的な部分は抜きでただ感じてみようと試みてみた。美術は教養的な感じで今まで捕らえていた分その表現を自分なりに感じることができなかったような気がする。

そうすると、響いてくる絵もあれば、そうでないものもあり、その違いがはっきりするのだ。正直キュビズムなどはまったくダメだった。でもそうすると、やっぱりその奥にある事実や背景を知りたくて長く購入していなかったカタログがほしくなってしまった。これから美術館へ行くときはこういうスタイルになるのだろうか。

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F1グランプリ鈴鹿 [つれづれ]

F1グランプリが終わった。自分は平和主義だし、エコは大切だと思っているし、人間がそこまで進歩しなくても、もっと大切なものを守るべきとかんがえているが、なぜか究極の無駄遣い、最終目的はコマーシャルというレースなどに惹かれる。六田登氏の漫画「F」も大好きだったし、ボクシング漫画も「あしたのジョー」「がんばれ元気」「はじめの一歩」と続いている。この矛盾はきっとなんらかの意味を持って、なんとなく偽善的なものではないかという危惧を抱き続けてきたわけだが、だからといって、わざわざ浪費家になったり戦闘的になったりする必要はない。むしろ自分の中の本能的なところのはけ口と間が選ればよいのでは?と思うことにしよう。

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Maxおめでとう!角田君よかったよ。ベッテルありがとう!

 


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所詮の人生 [つれづれ]

自分は母親の影響か、ほとんど生物を殺したことがない。自分で殺したことはないが、肉も魚も食べるし、ゴキブリホイホイをしかけたこともある。蚊を手で殺しはしないが、蚊取り線香は焚いたことがある。もし蚊がなんらかの菌をもっていたらやはり殺すだろう。自分が手を下すのはいや、だけどそのことを禁止するわけではない。子供の頃は虫を殺さないでが周囲に伝わっていたけれど、中学の時の水泳合宿で、自分が注意するから周りの人がひどく気を遣って、蚊を殺さず追い出す苦労をしていたのを申し訳ないとおもった事も覚えている。それで大人になって、他人のすることには寛容になったというところもあるのだけど、実際自分の人生は自分が正しければよい。というものであった気がする。

車も電気自動車にのってCO2を排出しない、仕事もどんな患者も診ることが出来るヒトは診る。を貫き通してきた。しかし、他のヒトが断ったことをとがめはしないし、終了ギリギリに来た人は、他に主治医がいるようなヒトはやっぱりネガティブな気持ちになる。

これって本当に正しい生き方なのだろうか?などと考えることがあるが、所詮自分などが、、などと諦めたりもしている。しょせんこんな人生のままで、自己満足で終わっていくのかもしれない。

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我が家の習慣 [子育て日記]

我が家では毎月誕生日がある。当たり前の話しだが、ヒトは年に1回年をとるわけではないし、年に1回自分のやってきた事を振り返るわけではない。

メメントモリまではいかないが、日々時間は流れ、その中で成長あり、思い直しあり、ふり返りありであることを感じと欲しいと考えて始めた。

以前は毎月月誕生日にケーキを買っていたが、日曜の大河タイムにもおやつが出るので結構な頻度になってしまう。ここ半年は月誕生日のヒトに手紙を書くことにしている。大変なようでそうでもない。毎日日記をつけているのだからその時間が使える。手紙を書くという習慣が今後のこるかどうかは別として、もらった方は結構うれしいものである。できれば、ずっと続けて欲しいなんて思う。

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自分がやってきたことは [医療]

自分は、後輩の医師たちに患者を断るなとずっと言い続けてきたし、自分もその信念を貫いてきたつもりである。その事は、もしかすると自分たちのグループを守ってくれないと考える者もいたかもしれない。そして反動的に私の手を離れた後、患者を選ぶという方針に切り替えたものもいるかもしれない。

 

果たして、私のこだわりは意味があったのだろうか、少数ではあるが、自分が診ることができる患者診るという、医師として、根本的な精神を何かに侵されずに持ち続けてくれた人はいると思う。私にできた事は、もしかするとそれくらいかもしれない。

 

もし日本中の医師がみなそういう精神を持っていれば、今のような日本の医療の失態を招く事はなかったという自分の理想は、とてもじゃないが実現しそうもないのだけど、その原因の1つとして、これまで日本の診療が医師の良心に委ねられていたということをは確実に存在する。また大学受験の最高峰であるあり、それを切り抜けてきたというプライドが、その気になれば、いくらでも湧き出てくる仕事を拒否するような風潮を作っている可能性もある。


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今日研修医に話したこと [臨床]

今日、研修に話した事は、患者さんにその検査をするときによーく考えろと言うこと。前からずっと言ってることではあるが、とりあえず私の印象はアメリカなどでは5%以下は切り捨てて良いという考え方があるように思う。つまり、その可能性が非常に低いのであればあえて検査しなくても、それは許されるというスタンダードが存在し、それによって医療者側が守られ、また医療経済も守られているという印象である。それに対して日本は逆の発想が多くを占めている。

コロナが良い例で、西洋諸国が人の行動を厳しく制限したり、病気を特別に扱うことの方が社会としては相対的損失であるという結論で、どんどんと規制を緩めてきているが、日本ではレアな事例を取り上げて、これがあるからだめだと声高らかに言う人が多く、世論的にもそちらに向いてしまい、政治もそれに従って動くということになり、いまだコロナは第5類のままである。そういう考え方は確かに良い面があり、細部まで行き届いた医療といえるのかもしれない。ただし、その反面しわ寄せが来ているのも確かだ。日本は検査大国。医者も患者も検査を基準に病気のありなしを決める。だからそれ以外の情報は軽視される。だから検査の結果が不確実であることに目を向けようとしないし、よって検査以外の情報が検査の確率をうごかすことを認めようとしない。医療経済が圧迫される中で、検査をしないと医療費が上乗せできないので、より検査を行う方向に流れる。そしてそのことがより医療費と医療の質を悪化させ、医師をヤブ化させる。

 

この話をするきっかけとなった例は

50代の男性の後頭部痛

ヤブ1)はⅠ週間もまえからの頭痛だし、元気そうだから大丈夫痛み止めで帰す。

ヤブ2)は頭痛なのでCTをとり、読影で問題ないことを確認して帰す。

ヤブ3)身体所見で神経学的所見がないが、はじめての頭痛ということなのでCTで所見がないことを確認して帰す

ヤブ4)後頭部痛と言えば、椎骨動脈解離がもっとも怖い、しかしⅠ週間前であるし今日ではなく次回MRIを予約する。

ヤブ5)頭痛はsudden onsetではなく海外出張の時起こり、帰国後は軽快してきている。夕方に強くなり入浴で軽快する。血圧も高くなく、めまいもない。身体所見も問題ない。後頭部痛は椎骨動脈解離が怖いが病歴身体所見から否定。緊張性頭痛でよいだろう。本人も納得しており対症療法で帰宅とする。

この中で最も病院に貢献しているのはヤブ4)次は2)短い診療時間で他の患者を診ることができるから。5)はもっとも診療に時間がかかりしかも検査もしないので、医療費は1)と同じである。

患者さんがCTを希望していたとして、患者にもっとも有益なのはどれだろうか?

医療がふつうのサービス業と違う点は患者の考える幸せと医療者が考える目標が違う点である。当然患者側は医療の知識もなく、特に検査の特性やそれが人体に及ぼす弊害もあまり考えないだろう。お金をだせば買えるというものではないのだ。

医師は検査をするとき必ずそれによって得られるもの(マネージの変更)とその弊害を天秤にかけるのである。当然重篤な疾患をそうていしているのであれば検査閾値は下がるし、患者の意向に多少なりとも影響を受けることもあるかもしれない。

いずれにしても頭痛→CTなどという1対1対応のようなことは特に若い医師はやってはいけないこと。十分考えているひととその時は同じようなことをしているように(むしろ考えている方がぐずぐずしているように)みえるが、ドンドン医師としての実力は開いていくだろう。


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