棚上げ問題 shelving issue [子育て日記]
うちの次女はことあるごとにこの父に挑んできてくる。ランニングとか、かるたとか。なんとしても勝とうとするのはよいことのような気もする。
ズルしてでも勝とうとするくらいまではまあ子供だからとたしなめて終わるのだが、どうしても生理的に?許せない行為がある。それは自分の行為を正されている時に、父のマイナス点を探そうとすることだ。たとえば、父が子供部屋の掃除をしていると「なんでパパの携帯がこんなところにあるの」とこんな具合だ。 それこそダイナミックな「棚上げ」なのであるが、どこまで意識してやっているのかさえあやしいほど、つかみどころがないところがなおさら父をイラつかせる。
それは正義感の未熟なのか?公平である必要はないという甘えなのか?怒ってもしょうがないのだとは思うのだが、一人の未熟な人間として腹が立ってしまうのだ。
そういうことがあると身構えておいたら、苦笑いで諭せるかもしれないが、なかなかこれが不意にやってくる。そしていままでの諭しは自覚がないので全く効果がない。年単位で待つべきなのか?なんかそんなお話しの絵本でも買ってくるかな。。。
The question on the way of education? [子育て日記]
教育の方法を問うことは?
横断歩道では必ず止まって車を確認する。散歩の際にそれを必ず徹底させ、黙っていても行なった場合はポイントをあげるようにしていた。
確かに、そうすることを覚えはしたが、車で送って車内から見ていると案の定やっていない。褒められるから、ポイントが取れるから始めたものは、それがないときわざわざ行なう理由がないということなのだが、本当に理由がわかるまでのつなぎとしての方法といういみだけでも意味がないかと思うがどうであろうか?
それともこんな大切なことを厳しくとにかくやれ!とといって否が応でも行う習慣をつけた方がよかったのだろうか?しかし、実際厳しくしつけようとしたはことごとく習慣化しないという経験が、それを躊躇させたのだった。
褒められて育つ などという甘えたことを平気で言いのける世代だから、教えられる側の責任より教える側の工夫が問われる。それこそ子供達の自立を妨げていることになるのではないだろうか。
子供の物欲 [つれづれ]
子供のころ京阪電鉄の三条駅は私鉄っぽくないほど余裕の大きさがあったように思う。京津線の終点もそこにあったし、そんな駅で買ってもらえる楽しみにしていた、アップルパイがある日全く買わなくなってしまった。おそらく今の自分のアップルパイへの思いはあの時の喪失感が育てたものだと思う。
考えてみれば子供のころの物欲はすべて中途半端にかなえられ、案外それは今も自分の中に息づいているようだ。カメラはOM−1が欲しかったが、父親のお下がりだった。自転車はナショナルのエレクトロボーイがよかったのだが、類似品だった。ラジオはナショナルのクーガーのAMアンテナが回るヤツがよかったのにソニースカイセンサーICF-5900だった。GIジョーのアメリカが欲しかったのになぜかドイツ軍だった。
こんなにも覚えているということはどういうことなのだろう?決して恨み辛みではないし、欲しいもの何でも買ってもらえたらよかったとも思っていない。もしかすると覚えていないものは、すべて自分の希望を手に入れていたからかもしれないし、でもまったく記憶にない。中学になってからは自分ですべてのものを選んでいたし、それほど大きな買い物はなかった気がする。逆にまぁまぁな買い物を自分でできるということは、それまでは自分の望むものなど手に入らないという親の方針だったのかもしれない。
自分は子供達にモノについてどのように与えていけばよいのだろうか?なにが正解などないのだが、自分が根に持っているから望み通り買ってやるも違う気がするし、逆にちょっと違うものを買ってやるのもなんかわざとらしい。
今の基準は子供の役にたつものとしているが、いつまでもそれ一点張りではきかない。1つ言えることは、親しとての筋をちゃんと持っておくほうがよいということだろうか。
エネルギー保存の法則 [つれづれ]
階段を上るとき一段飛ばしでで跳ねるように上がることが多いが、それはおそらくじわじわと一歩一歩登るよりも楽であることを、無意識に感じ取っていたからなのだろう。
今日試しに病院の4回までをその二通りで登ってみたが、脈は同様に110程度であった。長い間生きてきて、初めて証明した瞬間だった。しかもはねた方がタイムがずいぶん早い。
そもそもなぜ確認しようと思ったか、それはランニングの走り方の本にそのような走り方の方がよい的なことが書いてあり、そのことを実践してみていたところだったからで、確かにそちらの方も体感的に楽に速い気がしていたが、そこから階段との共通点を見いだしたのだ。
子供のころ階段を上るのと降りるのとどっちが体力使うのだろうなんて悩んだことがあったが、子供の体力に驚くとともに、位置エネルギーを感じるからこそ、また工夫も生まれてきていたのだろう。
開業 VS 勤務医 [医療]
病院て勤めている限り、どこかで開業医は、自分の使命を全うしていない感を自分は持っているようだ。
それは、患者に対しての責任はもちろんのこと、経済的な問題も含めての話しなのだ。
嫁は早く開業してほしいということをあからさまに突きつけてくるし、自分もそんなに年をとるまで勤務を続けられない事も知っている。しかし逆に患者に対する仕事を自分ができるはずなのに、中途半端でヒトに預けて自分の時間を作りたいほど年を取っていないということもある。
もちろん、自分のできないことは結局ヒトに頼んでいるのは勤務していても同じことなのだが。
勤務医の負担はひとが思っているよりも大きい。診察時間が終わったらそれで自由になるヒトとならないヒトの差は大きい。だからその見えない部分が金銭的にすらカバーされていないという今のシステムがおかしいし、だからこそマンパワーもそろわず、仕事的は各自の良心に依存しているのである。仕事がカバーされないから金銭的なカバーも中途半端になる。
もちろん開業医は自分がもしうまくできなければそれは自分に返ってくるのだが、その技量は医療的な技量と別なところにある部分が大きいようだ。
このあたりの状況が、自分をズルい(と思っている)側に鞍替えさせられない理由なのだろう。
なんとかお金、用意できないかなぁ?
毎日の大切なこととは [子育て日記]
子供がタイツを学校にはいていきたいらしい。
母曰く「○○先生はダメと言っていた」
それに対して娘は「○○先生じゃなくて、、、」と言ったところで当然母親に制止されていた。
さて、「言いたいことがあったら言って。」と口を挟んだが、口をつぐんでしまった。何度聞いても涙目になるだけでなにもいわない。これは今までにも何度も同じような場面があったが、どうせ論破される。と考えているのか?それともただ怒られているのだから従うしかない。というなのか?石もしくは貝のようになってしまう。自分には理解しにくいところだ。
自分もしつこく「父は君をひとりの人間として対等に付き合いたいと思っている。思っている事をいってくれないと、なにもはじまらないのでは?」などといいよったら。
泣きながらではあるが、自分の欲望を友達をダシにして伝えてくれた。
これはもしかするとこんな状況になってしまった(○○先生を否定して自分の都合のいい情報だけをたよりに自分の主張を通そうとすることに両親がムッとしたことからはじまったのだが)あとの流れでは初めての成功例かもしれない。子供はすぐにいつもより明るくなって父にまとわりついてきた。
ちゃんと向き合うとはこんなちいさなことのようで大切なことの積み重ねなのではないだろうか。
総合医と専門医の違い [医療]
前回の院内発表で総合医と専門医の違いはないかという問いに
あいまいさを受け入れるか?事実を尊重するか?の違いという話しをした。
つまり、総合医は何事も確率で考えるが、専門医はその施設の最後の砦となるので、その人個人の事実をベースに考える。
今日整形入院しているヒトが失神で紹介になった。迷走神経反射のようではあるが、肺塞栓や不整脈をかんがえなくてはならない。
総合医はある程度非侵襲的な検査を行って、それが否定ならば可能性を残しながらも経過をみるということになる。専門医が紹介されたのならば、自分の領域で考える検査は少なくとも行うのではないだろうか?
どちらが正しいとかいうことではない。役割と教育の問題である。ただ、日本では専門医が多いというだけではく、国民気質的に少ない確率のものも見逃しは許されない傾向にあることは確かだ。
電子カルテ [医療]
電子カルテ
世の中が電子カルテになってもう20年近くになるだろうか?これほど時間がたって、これほど電子機器が進歩しているのにかかわらず、電子カルのメリットデメリットはそれほど変わっていないのではないだろうか?
メリットは情報共有しやすいこと、伝達ミスや処方ミス、指示ミスを防げること。
デメリットはカルテにかかる時間がなかなか短縮できない。全体を見渡すことができにくい。
患者に合わせた書き方ができないなどがある。
自分的にもっとも大きなデメリットは医師がベッドサイドに行かないことではないだろうか?
以前はよくカルテをもって患者の横に座り、何十分も話しを聞きながらカルテを書いたものだっtが、
いまや患者でなくカルテを治療しているようで、結局その方が結果が上手くいったりする、
情報を上手く扱い、漏れをなくるすころは大切なことではあるが、医療としてそれが本来求められているものの一部でしかないことを自分達は心に留めておく必要があると思われる。
申し送りというシステム [医療]
とかく医療は時間ギリギリによわい。ギリギリによわいというか役割分担によわい。
たとえば11時30分まで受け付けの場合29分に受け付けたひとはそのまま2時間かかったりするが、それは午前の主治医がずっと診ることになるのが通常である。運が悪かったとしか言い様がない。
たとえば外来に3人に医師がいて、受け付け終了と同時に帰宅できるような場合は、最後の患者があたったヒトは悲惨である。しかしこれも「運が悪かった」と済まされている。
昨日の外来。頸部痛みで来院した人。が11時27分に受け付け。外来まではあと15分ほどかかる。
そして耳鼻科と内科を受け付けているのだが、この方を診ないと帰れない。
看護師からどうします?の相談。その「どうします?」の真意がとれずに聞いて診た。
結局耳鼻科は先に診たい(先に診て帰りたい)内科看護師は内科で先に診てほしい(終わったら帰れる)ということなのだろう。でもそんなこと言えない。とこんな感じだった。
しょうがない。では耳鼻科受診はなしにして内科で診るよ。ということにした。
つまり、こういう微妙なところでその人が試されるということなのだろうが、自分はまっぴらごめんで、システムで決めておいたら誰も嫌な思いをしなくてよいように思うのだが、同視してそうしないのか今を持ってなぞなのである。
対話によっての抑止を、否定すること [つれづれ]
よく政治家が抑止とは向こうが武力をもっているのだから当然。武力の大きさのバランスで考えるのであって、対話などでなんとななるといっているのはファンタジーである。と迷惑そうに発言しているのを目にする。
確かに現実的ではないということは自分も最近はわかっているつもりで、日本はそのためになめられていて、アメリカの後ろ盾があるからこそ、生きられているのだろうということを理解しているつもりだ。
しかし第2次大戦後、「侵略」によって領土を広げた国があっただろうか?そして日本はテロの攻撃を外国からはほとんど受けていない。それこそアメリカの力もあってのことかもしれないが、逆にアメリカがあるからこそ起こっている争いもある。
領土よりも憎しみが争いの基礎ならばやはり「対話」必要ではないだろうか?なによりもそれを将来の夢としておくべきではないだろうか?子供達まで対話できない世代にしてはいけないように思う今日この頃である。