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赤鼻のトナカイ [つれづれ]

今日帰宅すると子供達に鼻が赤いと言われた。言われたついでに「赤鼻のトナカイ」みんなで歌ったのだが、子供達はこの歌の歌詞をどうとらえているのか少し興味が出てきた。


 


自分は初めて聞いた時、ピカピカというだけで電気がついているわけじゃないのに夜道を照らせるのだろうか?と思った。妻に聞くとやはりそう思ったらしい。


いったい幾人にひとたちがトナカイは赤鼻だったからよかったねとすなおに思えたのだろうか?これもサンタはいるだよ的子供マジックの1つでなんとなく違うかもとおもいつつ。そうかんがえとくのがよい。的なものなのだろうか?それとも欠点のようにみえてそれが実際に役に立つものでなかったとしても、考えようでポジティブになれるということなのだろうか?


 


そうやってなんでもポジティブにかえていくことで救われた子供が自己肯定感がやしなえるとでもいうのだろうか?結局誰かに指摘されて、くつがえされないだろうか?など最後は自分の子供を対象に考えていた。


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※月曜の朝食車の充電中に


 


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成人式の日 [つれづれ]

成人は18才になるという。どんな意図とどんな効果があるのだろう?


高齢化社会となったいま。若い世代の選挙人数が増えることには、グレタ的に意味があるように思われるが、(よい未来をちゃんと残してということ)18才の人たちが自分の責任でローンとか、資格とかパスポートとか言われても、今となってはあまりピンとこない。


 


渦中の人たちの中でも特に大学に行かずに働くような人たちにとっては大いに意味があるのだろう。


 


アルコールタバコに関してはどうだろう、逆に意味がないような気がする。がそこ18才にしたらかなり批判されるということかな?


でも飲まないといけない時には20才でなくても飲むだろうし、ただ、飲めないヒトは断る理由にはなるかもしれない。しかしそれは20才を超えても同じ事だから、飲みたくないヒト飲まなくてよい社会になることの方が大切かもしれない。


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※家族で同じ絵を描く


 


 


結婚は、世の中の情勢に忖度。みたいな感じだろうか。


 


自分にとっては前妻の子供の養育費の問題が最も大きい。ただそれだけ。まぁ20才までだろうけど。。


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つらい当直 [医療]

どうもよくわからん。

当直していると、今満床ですと言われることがある。救急隊から電話です。入院しそうなヒトで、今満床だから入院させられないけど受けていいですか?と聞かれる。いい。というと「こいつ言ってもわからんのか!的な感じでわかりました。と、なんかおれダメ?見たいな空気になる。

満床だからどれないってこと?と聞くと、「先生が決めてください。」となる。

 

救急隊はとにかく行き先があればいいという感じで、数打ってあったらラッキーのように搬送先を探さざるを得ない。

どこの病院も診たくなければ断る権利が許されているようで、良心発揮して頑張るところを救急隊は探しているようだ。

 

そんなに日本の、まして東京という都会の夜間は医療過疎的なのだろうか?きちんと分配すればなんとかなるような気もするのだが、そもそも夜間救急だけを医師を行っているわけではなく、ほとんどの当直医がその日の日勤からの延長でオーバーワークということ、つまり社会的には医療者特に医師の良心によって夜間の医療は成り立っているので、断る権利もある。ということなのだろう。

 

そういう意味では夜勤の看護師よりも権利を持っているのは医師なのかもしれない。

が社会からすると、たらい回しなどがおこり、医療としての機能は失格である。

どうしたら何とかなるのだろうか?なぜ都心に徳州会を建ててはいけないのだろうか?

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誰も口にしない矛盾 [医療]

ご高齢ではあるが元気な方。開業の先生からの紹介。家族ぐるみらしい。

3日前からの微熱だが少しずつ回復してきている。

ご本人と相談して明日まで経過を見ましょうと、結論づけた。

その後奥様と息子さんが外来に乱入、本人のいないところで心配だから入院させろという。

心配は共感できるし、自分も心配だから明日来てもらうわけで、入院するかどうかは程度問題なのではある。

ただ、「ご本人は帰りたがっていますよ」と言った時、「本人はそういうかもしれませんが。」とがっかりした調子で返された。

 

若い頃なら「ご本人の意思を無視するのですか!?」などと食ってかかっていたかもしれないが、今回は受け流して結局今その彼を外来で待っている。(おっ受付た)

 

日本の医療者も家族も、本人よりも家族の考えを大事にする傾向がある。患者側も同様で、自分が病気になりたくないのは家族に迷惑をかけるから。自分が施設に入りたいのも同様。そして家族は心配だから入院なのか、心配したくないから入院なのかどちらかわからなくなってくる。

もし本人に何かあった時、自分たちは本人には怒られないし、訴えられるのは家族からである。

そんな、なんとも言えない矛盾の絡み合いが医療現場には確かに存在している。でも誰もそれを表立って口にすることはない。

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過ぎたるは及ばざるより強し

過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉があるが、こと医療に関してはドンドン過ぎていったモノの方が強い印象がある。

 

今日あったことは顔が浮腫んでいる気がする90才の老母、どう見ても浮腫んでいない感じだけど本人は気にしていると言うヒト。そういう看護師さんのアナムネからの流れで、研修医も「浮腫んでないですねぇー」などという。

上級医はいや頸静脈張っているし、slow edemaだし、Ⅲ音も聴取、心不全の初期段階かもなどという。研修医は「ほー」と関心して各種検査施行、結局まだ介入するほどではないね。なんだけど、知識があって感心させた分勝ち!みたいになっている。

うらを返せばやり過ぎなのに。

 

こういったことはしょっちゅうこの世界ではおこっているのだ。患者の安全と、検査許容国なだけに許されて、まかり通っているのだが、、果たして患者のリスクを負わさずに医療費を抑える方向には永久にならない。

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以前から不思議に思っていたことがある。 [つれづれ]

それは自分が何かをやらかして、ある病棟でとても評判が悪くなり、非常に空気の悪い中で仕事をすることになったときに、他の病棟にはその悪い噂は伝わらず、全くかわらず接してもらえるという経験が幾度もあるのだ。

 

看護師も同期同士なら仲もよいだろうし、情報が伝わってもおかしくないのに、なぜかそれはおこならない。そして逆にある病棟だけばしつこいくらいに陰圧が続く。結局やらかしたことはfatalなものととらえられていないということなのだと思うが。。

 

人間というものは常にクラスタリングが必要な生き物でその中では共通の意識、共通の敵、共通の基準が必要なのだろうか?

 

にしても自分はそういうグループに一度も入った自覚がない。「えー?そうやろか?」などと言ってしまう。その割には、激しく疎外されることなく「今まで生きてこられたなー。」とそういう意味では自分によかったね。といいいたい。どんなにはぐれ者にされそうでも自分の意志の一貫性を通してきただからだろうか?

 

もちろんこれからだってわからないが、時々multiple complaint 話の長い患者さんをわざわざ嫌そうにする自分をアピールするのだけは嫌悪感を自分に抱いたりする自分はいるのだ。

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確証バイアスの中で [今日話したこと]

前医の診断を信用しない。

これは前医をリスペクトしてはいけないということではない。大まかに2つの理由がある。それは、なんでも鵜呑みするのではなく自分で考える。ということと、もっともらしい情報にアンカリングされることで自分の思考が影響受けることを避けた方がよいということである。

それによってせっかくの後医は名医の優位性が相殺されてしまう危険すらある。

 

そして、前医の情報が都合のよいものである方がそれを受け入れやすいという確証バイアスも拍車をかける。

 

自分はこの年になってもOpne mind になかなか自分を広げることができない経験をする。

わかっていても渦中のヒトになると見えなくなるものがある。診療中は幾度となく枠の外にでて事態を見直すことを忘れないでおこうと思う。

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人間の変わった習慣 [つれづれ]

古今東西世界じゅうで人間は記念日や節目的な日をよりどころにする。特別な日を決めて特別なことをしようとする。西洋人のことをパパラギという人たちもそうであろうか?


 


1365日は同じなのに、どうして人間は共通無意識的に記念日を欲しがるのでしょうか?もちろんかく言う自分もクリスマス、誕生日、お正月などそれなりに楽しんでいる。そういった習慣を否定するわけではないが、人生は短いので今日はおざなりの日だった。なんてなんとも,もったいないと思うのである。


 


ささやかな抵抗として自分たちは月誕生日を祝い合っている。「毎日が記念日」なんていう最もらしいことが歌の歌詞になっていたりするかもしれないが、きっとそれができないからどこかの区切りの自分たちをリセットし、メメントモリまでは思い出さずとも、新たに日々を感じようというのが人間の本能の中にあり、ある意味死への恐れに対抗しようとするものかもしれない。


 


さて、今日はなんの記念日だったろうか。


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