NNTE [臨床]
NNTE Number need to examination
肺塞栓はindex diagnosisいつどこででくわすかわからない。症状がまったく典型的でなく、他の疾患を想起して撮影した画像から判明することもある。
では致死的疾患であることから考えて、スクリーニングをするのか?スクリーニングだから感度が高くないといけないから造影CTか?と言われると、やはりどこかで閾値を作らなければならない。
dダイマーをスクリーニングに使う人が多いが、閾値をどこに置くかという問題がある。低くとれば見落としは少なくなるがかなりの人に造影CTを課すことになる。
基本、肺塞栓も検査のみで診断がつくという代物でもない。症状が全くなくDダイマーでも落とすものは軽症と考えて、見送ることがセカンド‐ベストではないだろうか?
いつも言っていることだがこのあたりの感覚が特に日本人にはかけている。
医師にも、非医療者にも
その典型的な例として研修医が教えてくれたツイートがある。
めまいで来院した人が大動脈解離だったのでこれから全てのめまいが主訴の患者に造影CTを撮るというお達しが上級医から届いた。というもの。こんななんとも短絡的な診療が実際に起こっていたりする。こんな命令は医師が医師としての誇りや役割を捨てろと言っているに等しい。そして、むしろ脳梗塞を見逃すことになるだろう。これまたいつも言っていることだが、医師が診断をして検査によって確定する。検査の結果はそれまでの情報を合わせて、確定するのは主治医なのである。その力量を否定してしまっては、単なる検査オーダー係となってしまい、存在意義さえ問われてしまう。そして、放射線医師に頭が上がらないだろう。
結核を疑う時 [臨床]
・長い発熱
・高齢とは限らない
・以前の既往、暴露
・影がおかしい
・肺の音がしない
・血痰
バイタル食欲を評価し、できる限り自宅で療養させる。(陰圧室はそんなにない)
外来で見るとしても、喀痰は何回かほしいなのでFQやマクロライドはできるだけ使わない。
その日の喀痰G染色で菌がいれば、セフェムかペニシリン系を使う。
喀痰が本物で普通の菌がいなくて結核菌がいなくて肺炎ならばFQマクロライドを使わざるを得ないかもしれない。(ちゃんとした喀痰がとれたのだら、培養は生えると考える?)
入院が必要な時は隔離(隔離がオーバーになって迷惑を従業員にかけることはない)
第二の人生 [つれづれ]
自分より20才ほど若い先生が「はやく子供が自立して第2の人生を楽しみたい。などと言っていた。じつは子供達はふたりとも同じ年。
そして、考えてみると自分も今が子供のいる第二の人生である。一度目の結婚ですら遅かったのだけど、それでもそれは自分の人生を変えることはなかった。それはつまりそれなりの覚悟がなかったということだと今になって思う。自分も年をとり、仕事に対しても少し肩の力を抜いて考える事ができたし、人生に対しての考えは、自分が何を認めてもらえるかよりも何をするか?そして何を残せるかに変わってきている。また異性に対しての本能的感情も変わってきている。そんな中で今妻や子供と共に生きることが自分の第二の人生となってきているが、自分のなかで自分の納得がいく人生を送ってきて、そして後悔どころかラッキーだったと今思っている。やっぱりラッキーだな。
私の意見 [医療]
第3波が発生した時、「医療崩壊」と騒いでいたのを覚えていいますか?看護師が何日も家に帰れず、過酷な状況に耐えているドキュメンタリーが放送されたりしていました。医師会会長も声を上げて「医療提供が立ち行かなくなる」と発言していたようですが、果たして医療者のどれくらいの人がコロナに直接携わっているのだろうかというとかなり疑問があります。おそらく「お前んとこみたいに大きなところや公的なところは、さすがにやらんといかんやろ。」というところのみだと思います。
それ以外の白羽の矢が当たらなかった医療施設はホッと胸をなでおろし、発熱というだけで最初からみないという方針を打ち出しているところも多いです。もし一般の人がそれを聞いたら「えっ?なんのための医療?それにコロナを診ると悪い噂がたってそのクリニックの患者さんが減って潰れるっていうけど、どのクリニックも病院も受け入れていたら、そうはならないんじゃないの?みない方が得するというシステムがおかしいのでは?」と疑問に思うのではないでしょうか?
自分もまったく同感です。でも自分は今の状況や医師会の言動に全く驚くことはありません。
なぜなら医療界はずーっとそういうスタンスでやってきたからです。
例えば、地域で夜の救急診療を輪番制をしいて守るといシステムがどこの地域にもあるのですが、実際輪番にあったっていても補助金だけを受け取り救急患者を断り続けている病院も多々あります。断り続けているので、救急隊ももう問い合わせもしないのです。私はこの20年間患者を絶対に断らないというポリシーでそのポリシーにあった病院を選んで働いてきました。以前SARSが流行りそうになったときその準備のために地域で準備を進めていたのですが、はっきりと「うちらはやりません。オタクはpatient fastですよね!」などと皮肉めいて言われたものでした。わたしはもちろん「もちろんやります。」と答えたものです。結局SARSは日本に来る前に息たえたのですが。
私がこの20年でみてきた経験から言えることは、「医療者は医療者のために患者を犠牲に出来る。」という驚愕の事実です。これは言い方を変えると、「なんでも断らずに受け取って満足な診療ができないのはむしろ罪です。」となります。断った患者が何処へ行こうが知ったこっちゃありません。そのことは、それらをすべて受け取ってきた自分が一番知っています。なぜそんなことが起こるのか?大きく2つの理由は確実に存在します。
そのひとつとして、医療は医師の良心に頼って成立しているという部分が大きいと思いというのがあります。自分は週120時間以上の労働を40代後半まで行っていましたが、その半分はボランティアでした。私がいつも言っていたのは「病気質を取られているからしょうがない、労働分の報酬をもらっていないことが自分たちの強みだ。」そしてそれが自分たちのプライドでもありました。ただ、自分はそういう環境で育ってきたからそう考えるようになっただけで自分と一緒に働いてきた人たちはみな同じスピリッツでいると信じています。ただそういう人たちが守るようなシステムになっておらず、自分の身は自分で守らないといけないのです、際限なく患者を受け入れてたら、あの頃のじぶんのように週120時間、200日連続労働などというようになってしまいます。だからそこは国が分け合えば余る的なシステムを構築すべきど自分は考えるのですがそういったものは決して生まれないのです。今回のコロナ騒動でも発熱患者を断ってもだれにも咎められないのです。これが第一の理由です。
第二の理由は医療全体に流れる価値観だと考えています。どうやら私たちは日本に医療の中では異質な存在でなければならないようです。そして今、コロナ関連というひとめに晒されるところで診療している施設の多くは、ひとめに晒されないところで患者を断って選んできた人たちが、それができなくなっているのです。実際自分が元々働いてた病院は、粛々と今までと同じようにコロナを請け負い、診ています。今非常勤の自分は崩壊しそうになったら自分も泊まりがけで診療にあたると約束していましたが、結局声はかけられませんでした。
専門医は大切で、難しい治療をする人が必要ですが、多くの疾患を抱える高齢者や、とりあえず初めの段階を診る医師はかならず必要ですし、欧米はそういう医師を50%60%必要と考え育てています。ところが日本では専門を自由に選べることと、学会が大きくなること、大学の医局では研究が第一であることなどの理由から色んな疾患を見ることができる能力の価値はみとめられていませんし、ジェネラリストになろうという医師はほんの1%しか生まれません。つまり日本の医師は「その患者自分の科じゃないから。」という感覚に慣れているのです。それが今忙しいから、とか自分たちの施設ではみられないから、などに用意に発展するのです。
自分は、少なくとも自分の周りだけでもジェネラリズムをもった専門医を育てたいと決意してまだ道半ばです。これから自分が今まで働いたことのないような(病院内でも同様のことが日常茶飯事に起こっている)病院に勤めることになり、身を引き締めているところです。