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総合が育てるもの [医療]

総合診療と言うものを考えるときに、パワーバランスなしには考えることができない。

なぜなら、その総合診療が担うテリトリーは常に流動的で、はっきりした定義を作ることができないからで、下手すると誰かの都合に良いように決められる可能性がある。日本の医師は、基本的に高学歴でプライドが高い。臨床医として目指すものは難しいことができるようになり、それによって得られる名誉のようなものが大きいように思う。そのように自分を育ててくれるような患者を好む傾向があるという事実は否定することができない。

 

総合医は、そういう専門医の手から漏れてくるものフォローするという意味でとても大切な存在ではあるが、パワーバランスが調整されていない以上、異常なほどに需要に供給が大きく上回ってしまうケースも多い。各自の裁量で、患者選択が決められている以上、パワーに則した仕事の供給が行われるとは限らないのであるへというわけでへ。(というより、カテゴリーで決める以外の患者を振り分ける方法がないのである9

私は若い頃、50歳になるまでは不条理と言えるほどの激しい仕事を背負いながら生きてきたのだ。そしてそれはこれからも改善される事は無いであろう。だが、自分は自分が見ることができる患者は、断らないと言う信念を守りきったことを誇りに思っている。そしてその誇りは、仕事の半分がボランティアであったことも誇りの高さをより上げているのである。

 

根本にあるのは自分がどのような医師になるという医師像がなく、ただただこの職業が何のためにあるかという原則に従うことができたからかもしれない。それで50歳になるまで自分はあまり周囲の人のことを考慮する余裕もなく、結婚も失敗に終わったのであるが、今新たに子供ができて自分のもう一つの人生と言うものを守ろうとしているわけだが、どこかで自分の原則から離れることにならないかという不安も抱えながら仕事をしているように思う。この年になって家庭ができて、自分を守らないと自分の人生を生きられないというそんな甘えが仕事の上でできてきているのも事実であろう。今になって思うのは、総合診療という仕事は、その仕事が他の人がやりたくないものであったりする。その内容に制限がない分、自分の成長のみならず、目の前の患者の為という純粋な原則というものを、より難しい中で選択するというある意味自己満足を得られる職業かもしれない。自分の中のプライドにも負けず、見返りも求めず、必要なものは際限なく、受け入れることができたら、本当の意味で自分自身が成長できるような気もする。

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