外来診療教育 [今日話したこと]
15年前に研修医や後期研修医に対して、外来教育の重要性を主張していました。当時の内科トップに鼻で笑われたが、自分の考えは変わらなかった。若いから救急と入院だけをさせるというのは労働力としての期待でありそれによって学ぶことはあるが弊害もあった。通常の外来で、no acute broblemを結論に終診にしたり、最初から矢継ぎ早にclosed questionを行ったり、最後まで患者の目みない若い医師を時折見かけるのは救急のみから診療を始める弊害であろう。そしてなにより、疾患のない人は患者として認識出来ない頭が出来上がってしまう。なので、自分は外来教育を始めるときにまず救急外来との違いは?とコミュニケーションをとる理由は?という問題をなげかけ、毎回それを質問して答えが変わっていく様を観察し、それを教育外来の成果とすることにしている。
総選挙とやら [つれづれ]
総裁選が今日決まったが何故かいつもの選挙よりも国民の興味がある。もちろん総理大臣を選ぶわけだから興味がないはずはないのではあるが、投票権のない国民の興味が1番高いと言うのもなんとも皮肉な話で、国民は政治の事などわからないからほんとにわかった人たちが選んだ人の方が日本より良くしてくれると言う考え方と思いたいところだが、実際は誰が正しくてだれが間違っているかなどわからず、誰を立てれば自民党が勝てるかとか、派閥に従ったとかそういうレベルで投票されているように思う。たいして一国民と変わらない気もする。
なにも思い浮かばない [つれづれ]
なにも思いつかないので [子育て日記]
●志願者が社会人になる頃、社会はどのような能力や人柄を求めるようになっていると思いま すか。また、それを踏まえ志願者をどのように育てたいと考えていますか。1,080字(20字 ×54行)以内で記入してください。
子供と動物 [つれづれ]
子供と動物には勝てないというが、テレビでも、街中でも子供や動物をみるとつい目が行ってしまうし、よっぽど憎たらしくない限りははじめてあっているのに好意をもってしまう。
これほど最大公約数的に人気を得られるカテゴリーがあるだろうか?という意味で子供と動物には勝てないの言われているのだろう。
それはやはり裏なんのたくらみも、嘘もないという純粋な自然さがそこにあるからだろう。そして物事を疑わない心も人を安心させるのだ。
その理由は?逆にいうと人は成長するにつれてどんどんと、嘘や、たくらみを身にまとっていくということなのだろうか?そして安心するということは本当は純粋でありたいと心のどこかで願っているということだろうか?
原始時代も子供に癒されただろうか?それともおとなになってもみんな純粋だっただろうか?
今の世の中はいろんなことがありすぎて、いろんな物が多すぎて、みんなが純粋にもどるような世界は二度とこないのだろうか?
都会と田舎はちがうのだろうか?
バスの中での子供をみてこんなこと妄想してしまった。
小学校受験 [つれづれ]
最近は願書の作文を書く毎日だが、もし本音で書くとしたらどうだろうか?そもそも小学校に入学するのに子供の優劣などわかるのだろうか?
素質を見抜くということなのだろうか?しかし優劣をつけるために何かをさせるのならば、必ず傾向というものがでてくる。傾向がでてくると対策を立てた者が強いということになる。その対策を能力ととられるというのもどうかとおもったりする。
そもそも私立の小学校に希望者がたくさんあつまるのはどういうわけだろうか?公立がだらしないということだろうか?特別意識がほしいからだろうか?エスカレーターで中学受験などさせたくないからであろうか?いずれにしてもわざわざ高い月謝を払える人のみが行くという意味ではまず、そこのところの特別意識は否応にももってしまうということになる。
自分は受験を理由に子供と一緒にいられる時間をとること自体に意味を見いだしていたが、やるからには結果はやはり必要になってくるものだ。
(植物園で写生)
新宿御苑 [つれづれ]
作文は思考を鈍らせる [つれづれ]
最近は子供の受験のための作文を書く毎日なのだが、なぜかブログがかけなくなる。おそらく自分自身の本心からすこし浮いたことを書いていることで思考静止というか、思考が固定化するのだろうか?おかしな現象であるが、作文は決してうそをかいているわけではない。でも自分の自由な文体でもなく、思っているというよりも願っていることである。
本当は、日本の季節の行事とかみんな体験している人などそんなにいない。もしかして先生は、それが日本人のあるべき姿などと考えているのでしょうか?的なところまで書いてしまいそうでそれを制する気持ちが自分の思考をにぶらえているのだろう。