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検査依存、専門主義、責任回避 [医療]

115日に上気道症状で耳鼻科を受診て治療されていたヒトは、もともと喘息は当院にかかっていた。20年前の心筋梗塞で他院でフォローを受けてるのだが119日ににそこで採血をしたらしく、その結果がCRP6だったそう。その先生は心臓は大丈夫だから大丈夫と言っていたらしくて、今日フォローで耳鼻科にかかったところ全く症状は良くなっていたのでこれで終わりということだが、その9日の他院のを見せられて。耳鼻科の先生が膠原病を精査した方がよいとやらで内科に紹介、正直、意味がわからない。風邪をひいていて、それで炎症反応が上がっていたと考え大丈夫ですよで終わらせたが。検査依存&専門以外は思考停止&責任回避主義とが浮き彫りになったできごとであった。

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開業できない理由 [医療]

自分が30から40代の頃は、朝6時に病院へ行って週1から2回はそのまま夜働いて、翌日の夜9時まで働く。もちろんその翌日はいつも通り。土日もボランティア出勤。そういう状態をなぜか受け入れていたように思う受け入れていた。


この職種としてはわずかな当直料と一銭も出ない時間外勤務。それでも自分は患者のためにできることをしているのだという誇りを否定したくなかったのだろうと思う。


 


では、今はと言うと同じような病院に勤めてはいるが、以前のようなブラックではなく、ある程度の労働は守られているが、その理由は地域での病院の役割がある程度決まっているということと、他の内科医師たちがの持っているジェネラリズムのおかげだと思っている。昨日、日本の色は稚拙だと言う話をしたが、ならば実際どうなったら、日本の医療は確実に医療本来の役割を発揮することができるのであろうか? 国は勤務医の仕事の負担軽減のために、まずは患者は開業医を受診し、


必要であれば紹介と言う形をとりたいようだが、1番根本のところで、医療者の考え方が変わらない以上は、人々の病院思考は変わらないであろう。その根本とは検査至上主義である。基本的に、卒業教育は私の見た範囲では、客観的な事実を追い求めるような教育がされている。問診や身体所見は客観的とは見られず検査を選択するための手段としか捉えられていないようである。だとすれば、その考えは当然、一般市民にも伝わり、彼らも検査を求めるようになる。当然のことであろう。


開業医(町医者)一回行って話を聞いてもらう。より病院でその日のうちに採血結果が出るもしくは簡単にCTをとってもらう。その価値観で医療を受けるのである。しかも病院がかかりつけだといざという時に救急車を受け入れてもらえる。このことは逆を言えば、かかりつけでなければ救急車を受け入れてもらえないかもしれないということである。では、開業医は何をしているかと言うと、できるだけ手間のかからない薬、処方だけの人を扱い、ちょっとあやうそうと察すれば、病院に送るるのである。もちろん、みんながみんなそういうわけではないが、実際に送られてくる患者さんの紹介状は9割が診断名や診断の予想が書かれてないものである。大体がこんな薬を飲んでる人がこんな状態をおこしました。飲んでいる薬はこれです。ご高診お願いしますである。では自分が開業したらその流れを変えようとして成功するかと言われると難しいのかもしれない。検査もできないのに抱え込むと言う評判が立つかもしれない。何かひとつ見落としたら、致命的かもしれないし、自分の理想とするような診療では全く利益がでない気もする。というわけでなかなか開業できないでいる自分なのであった。


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※誕生日まで待てなかったらしい。


 


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インタビュー [医療]

今日高校の同級生がやっているYou tubeチャンネルの録画をしに武蔵小山あたりまで行った。あまりにも大きな商店街になんだか関心してしまった。ただ、結構フランチャイズが入っており、「お前もか」とも思った。

インタビューの内容はやはり「コロナ」がメインとなった。

 

正直みんなコロナに飽きてきた(疲れてきた)感があって、つまリ何か具体的なことについて議論したり批判したりするのにも飽きがきているのだろう。かくゆう自分もそうなのであるが、結局全てが相対的、バランス。そして受け入れの問題であることはなかなか理解されていない。そのあたりを強調したい。

 

医学的にこうするのがベスト(極端なことを言えば、誰も家をでずに誰にもあわなければ、感染自体が広がらないことになる。)エッセンシャルワーカーに限らず、社会を動かす人がどこまで許容できるかというのは医学的な正しさからどれくらい離れられるか?ということであり、それはむしろ科学ではなく人々の受け入れの問題なのだと思う。重症化が少なくなったとはいえ、感染を景気に亡くなっている人は確実にいる。そのことに社会がどれだけ目を背けられるかと言うこともできる。経済と命という全く別の次元のものを比べられないから目を背けるもしくは麻痺するしかないのである。

 

そして、それではどれくらい行動を緩めたらよいかという問題に国や専門家は具体的な提示をしていないように思う。国民は「言われた通りやったのに感染したじゃないか。」と言わない賢さを身につける必要があるし、政治家はそれに屈しない。つまり「わからないものはわからない。」「確率の小さいことを寛容する覚悟が必要である。」と開き直る必要があるのではないだろうか?

ワクチンに限らず、医療というものは常にリスクとベネフェットのトレードオフで決断される。ワクチン必要で不要というのは間違っている。と割り切れるものではなく、ワクチンを打つリスクとそのことによって得られる重症化からの回避を、感染する確率に加えて考えなければならない。実際ワクチンで亡くなる人もいる。しかしワクチンをうったために死ななくて済むかもしれない。どちらが勝っているかは数値化できるものではない。しかし自分の経験上入院して重症化するひとはほとんどすべてワクチンを打っていないヒトであった。

 

つまり年齢や基礎疾患などのリスクが増えるほどワクチンを打つベネフィットが増えていくわけで、その逆転するラインが50代くらいまで現在上がってきていると考えることができる。

 

また、コロナ時代になり、日本の医療の未熟な面が明るみにでたように思われる。

発熱という理由にならない理由で患者を拒否する施設が多くあったという事実である。医療者は常に仕事のキリがなく、どこかで自分の生活と分けないといけないわけだが、その境目がシステムとして決められ、他の医師に引き継がれるようにはなっていない。医療者は常に自分の仕事が終わらない恐怖のなかで仕事をしているので、そういった良心にたよってい医療が行われている反面、患者を断ることを罰するような規則はないし、何らかの免罪符(よく使われるのが満床)があれば、断ることは寛容されているのが事実である。

専門性という目に見えやすい部分では欧米に追いつきつつある日本の医療も患者を診るという基本的なところで、スピリットもシステムも未熟と言わざるを得ない。

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理不尽な患者 [医療]

久々に理不尽な患者さんにお会いした。主治医の外来に来られなかったため翌日自分の外来を受診。待たせたこともあるが最初から攻撃的。

まず、処方だけなのに待たせるとは何事とお怒り。

お会いして、状況を確認しようとすると、「お前は処方だけすればいいんだ。」

などと何かにつけて攻撃的。挙句の果てには「ちゃんとやってくれよ。」「いい加減なんだから。」などと説教が始まる。

色々病気を抱えて自暴自棄になっているようなだが、そのうえ主治医のことを快く思っていないようで、その不満が初めてあった自分に放出されたと思われるが、それにしても理不尽であることにはかわりなかった。

 

正直自分の患者でなく、こんな扱いをしてくる人を、なんとかしてあげようというほど人間はできておらず、でも今の状態はなんとかしないといけないのかもしれない。そうでないと、性格が悪いがためにキチンした医療サービスを受けられないということになる。自業自得の域に入るとは思うのだが、、、


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寝たきり胃瘻の老人は保険適応にしないといえる政治家が必要? [医療]

寝たきり胃瘻の老人は保険適応にしないといえる政治家が必要などといってわざわざ世間をざわつかせているヒトがいるようだけど、現場にいる人間にとってはそれって政治の問題なの?と言いたい。

 

200年前半に胃瘻が簡単に行えるようになって、親の死を受容できない人たちによって、受け入れられたが2010年移行はほとんどのヒトが胃瘻は延命と考えており、拒否するヒトが多い。何かの洗脳的な宣伝効果の様に思えるほど、延命で亡いときの胃瘻にも拒否反応が見られるようになった。

 

もちろん自分は寝たきりでコミュニケーションができないヒトへの胃瘻は反対で、食事が摂れないヒトの家族とは何度も話し合って、死を受け入れてもらうようにしてきた。

 

問題は胃瘻やCVカテーテルなど目に見えるものではなく、死生観と、ACPの問題である。実際よくよく話し合うとほとんどのヒトが延命装置で生きながらえる事をやめたいと考えている、ところが、生きている間にそんなことを親に聞くのはダブーでようで、ほとんどのヒトが自分はいやだけど親に対しては決断することが難しい。そこのところを本当の望みを浮き彫りにして、促してあげるのが私たちの仕事だと思うのだが、救急病院も、施設の人たちもそれが自分達の仕事だとは考えていないようである。

 

実際胃瘻は施設の中でみることができる数は2006年から限定されており、救急病院は手っ取り早くCVを入れて療養型病院へ送るのがスタンダードとなっているようだ。というわけでいずれにしても今の現状で医療費を減ることはないだろう。

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勝ち負けではないのだけれど [医療]

なかなか理解してもらえない患者や、家族は往々にしているものである。

ましてや、治療がうまくいかなかった時は大変である。

 

カルテなどをたどると、キチンと定期的に説明していて、それでも家族は理解できていないようにみえたりする。

 

しかしこういう場合医療者は患者サイドに問題があるものと思っている事がおおく、それは言葉にださなくても、医療者と患者側の距離をドンドンと広げていくものなのだ。

 

自分は向こうがおかしいと思った時点で負けと考えている。それは医学的医療の負けとは全く別の次元に存在する勝ち負けなのだ。何が起こるかわからない事象のなかでなにかが起こった時誰かを恨まないといけないのはやはり不幸なのではないだろうか。

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老人施設の実態 [医療]

介護保険ができて、家族の金銭的負担は優勝したかもしれないが

果たして、救急病院の負担は減少しているのだろうか?高齢者が入居している施設には、嘱託医と言うものがいるようだが、どのような仕事をしているのかといえば、基本処方をするか、紹介状を書くという程度のもののように思える。高齢者を看ていくときに最も大切なのは、残りの人生ををどのように生きるかだと自分は考えているのだが、一体施設のヒトの誰が個人個人についてよく考え、その指標を提示したり、一緒に考えたりしているいるのだろうか、基本的に熱が出るかむくんでくるか、食事が取れなければ救急病院に送ってきてそのままお願いというパターンであるある。

 

そしてもう食べれない人はうちでは受け入れられないれないとのことで、救急病院で次の行き先を探すということになる。高いお金をもらって、自宅で提供されることよりも良いものを提供できていないのではないかと思う。自分が思うに、彼らの大部分は営利主義であり、また、ボランティア精神が欠損しているようだ、法外な入所費用をとっておきながら入院中も普段と同じだけの月額入居料をとっている。それでいて、帰るときにはあれこれと文句をつけて拒否をする。

 

救急病院を利用すると事しか考えていないように思われる。もちろん、救急病院には、医師も看護師もたくさんいて、施設に入るよりも良い環境を与えることができるが、それが患者や家族の幸せにつながるとは限らない。そこのところの考察が全くないように思える。また救急病院もの医師も、看護師もボランティア、精神で成り立っていることも考慮されていない。だから、ただただ施設側の都合で日勤時間ギリギリに送ってくるのであろう。

おそらく制度上で嘱託医は1人でよくて常勤は必要なく、それは施設としてはそれほどの報酬を払わなくてよいと言うメリットがあり医師も自分の仕事の傍らで行える程度の事しかできず、それほど深く関わることができないような立場で請け負っているのだと思う。その制度が変わらない限り、本気で患者や家族の幸せを考えるような施設は今後もできてこないだろうと思う。

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自分がやってきたことは [医療]

自分は、後輩の医師たちに患者を断るなとずっと言い続けてきたし、自分もその信念を貫いてきたつもりである。その事は、もしかすると自分たちのグループを守ってくれないと考える者もいたかもしれない。そして反動的に私の手を離れた後、患者を選ぶという方針に切り替えたものもいるかもしれない。

 

果たして、私のこだわりは意味があったのだろうか、少数ではあるが、自分が診ることができる患者診るという、医師として、根本的な精神を何かに侵されずに持ち続けてくれた人はいると思う。私にできた事は、もしかするとそれくらいかもしれない。

 

もし日本中の医師がみなそういう精神を持っていれば、今のような日本の医療の失態を招く事はなかったという自分の理想は、とてもじゃないが実現しそうもないのだけど、その原因の1つとして、これまで日本の診療が医師の良心に委ねられていたということをは確実に存在する。また大学受験の最高峰であるあり、それを切り抜けてきたというプライドが、その気になれば、いくらでも湧き出てくる仕事を拒否するような風潮を作っている可能性もある。


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承認欲求 [医療]

やはり仕事をしていると、自分の中の承認欲求のようなものは、どうしても存在する。しかしそれぞれの価値観は違い、自分の中で価値のあることが認められないどころか否定されてしまうこともある。医療の仕事というものは際限がない。仕事はいくらでもあるのだ。そして必要だからとやっていたら、どんどんと自分の生活を圧迫していくのだ。つまり自分で自分の仕事の範囲、限界を決めなければいけない。もしくは決めていいものなのだ。これが集団心理になると、いくら守りに入っても、集団内のものはそれが自分達の医療者としての誇りを傷つけることかもしれないことに気づかず、よって傷つかないのだ。誰かの大きな声によって守られてしまうようなのだ。そこでそれに反したことが起こると、それを受け入れることができない。ありていに言えば(患者のために)わざわざ仕事増すヒトは敵。などとなるが(  )の部分は見えてか見えてなくてか。主張しても届かないものなのだ。しかしと言うわけで自分は認められないというのもINSIDEOUTを本当に理解していると言えないのかもしれない。


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馬の首星雲


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患者中心とは(4) [医療]

自分は週1回勤務先外の病院で1日外来をしている。そして昼ご飯を外に食べに行くことにしているのだが、いつものように10時を過ぎたころから患者が増え始める。健診でひっかかって再検査なんてヒトも多い。そんなとき自分は残念ながら昼ご飯を食べにいけるタイミングを測り始める謀り始める。といってもよいかもしれない。

10時30分から検査をだして11時30分に再見なら問題ないのだが、11時半からだと再診察が休憩時間のど真ん中になり、結局外来のブースでパンを食べる羽目になる。それが出来るのが外勤だと思っているのだが、なかなかうまくいかない。いわゆる、ライフワークバランスの1つなのであろうが、たとえば自分の病院だと今日は朝7時半から6時まで息つく暇なく食事も患者さんと患者さんの間で小さなサンドイッチを一つずつ口にするという1にちだったが、まったく苦に思わなかった。不思議なものだ。

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