SSブログ

依存症? [子育て日記]

長女の友達の中で、やたらとヒトの悪口を言う子がいるらしい。そんな子を他の自分の友達の悪口を言われることを、いやがりながらも友達としてたよっているのは、よいことなのだろうか?それとも依存的なだけなのだろうか?と心配してしまう。誰々をグループを入れるのにその子にチェックしてもらうなどといっている。

そういえば2年生の時の友達もそういういわゆる独裁タイプだった。そのヒトに家来のようにくっついていた挙げ句に今はほぼ断絶しているようだが、だれかよくも悪くも引っ張っていくヒトにひかれるように思われる。将来強引な男についていくみたいになりそうで、それがよいことかわるいことかわからないが、少なくても自分の趣味ではないし、自分の子がそんなのはなんだかいやなのは親の身勝手なのだろうか?それともいまから少しずつ肯定的な人間に成長していけるのだろうか?

そういうわけで特にここ最近はできるだけ彼女の意志を通し、決めさせ、何かを強制的、にさせることを避けるようにしている。

th_IMG_2430.jpg

 


nice!(1)  コメント(0) 

保護者面談 [子育て日記]

長女の長女の保護者面談に行ってきた。

先生は日本人の先生と英語の先生が1人ずついるのだが、2人とも若くて特に日本人の先生は理想に萌えるタイプである。

理想に燃えのタイプはややもすると頭でっかちとなり。父兄に教育論の講釈を垂れたりするようだが、妻はそれが耐えられないみたいで、電話で話しをしながら悔しくて泣いてしまったと言っていたほどである。

そういうわけで、わざわざ仕事を休んで、保護者面談に行ったわけだが。結局目指すものは先生たちも自分たちも同じ訳で、自分もどちらかと言うと教科書を読んでいる方であるから、理想論と我々のできなかったことのギャップをお話しした。妻は自分たちがこんなに頑張ってきたのに、それを否定されたような気持ちになったようだが、最初からその部分を否定自虐的に指摘しつつ、後やっていけばいいかなどという話をしたわけだが、実は先生も同じことやってるんですよという裏の皮肉が込められたことを、先生も気づいていないようであった。私と妻はよく話し合って、子供に対しての教育についてはほぼ同意をえ合っている間柄であるにもかかわらず、タイミングもあったのだが、これほどまでに先生との関係が逆になると言うのは、自分が正しくインサイドアウトの方法論の応用ができたからだと自負している。

th_IMG_2386.jpg

 



nice!(1)  コメント(0) 

刺激と反応の間 [子育て日記]

今朝シャワーを浴びでドライヤーで髪を乾かしていたら、次女が「うるさい」の アピールでやってきた。洗面所と寝室は結構離れている。意表をつかれ、「ドライヤーの音で起きたの?」というのが精一杯、刺激と反応の間と自分のなかで繰り返したが、お腹が煮えるのが治らない。おそらく、その根底には妻のちょっと度の過ぎた寝させろ権利主張があるのだろう。妻はこどもが騒ぐ時は「寝なさい」ではなく、リビングに行きなさいなのだ。そしてそのリビングで寝ようとしているのが、自分なのだ。土日も含め常に彼女より1時間ほど遅く寝て2時間ほど早く起きている。それでも睡眠がとれていないと ぼやいている。仕事をしていない昼も時間がないというのだが、いったいいったい何をしているのだろう?と思いつつも、注意などすれば100倍マイナス方向へ事が動くのがわかっているので、これは5年 計画くらいで進めている訳なのだが。次女は常に母親が正しい。ので睡眠を邪魔したものは起きる時間であっても、生活音であっても「怒るべき」対象なのである。というところが、自分のコトセンに触れたのだ。

「ごめんね」という自分の声色は決して謝りモードではなく、謝っていないのと同じどころか逆であったが、それが精一杯であった。謝られて当然というように視線を合わせないままにうなずく次女にそのままでは済ませられない気持ちになった。

結局「ごめんね、父はシャワー浴びてドライヤーでを使うしかなかったが、どうすればよかったのだろう?」というのが ,寝起きで意表をつかれて不快だったのだろうなどと、いうパラダイムシフトは半分ほどの成功にしかならなかった。

 

そもそも嫁は子供に自分のこだわりで怒る。それは個々のこだわりなので一貫性がないのだ、そして自分が原因であったり、自分ができていないことでも怒るのだ。

それが姉には、見えてきているのだろが次女は長い間それで育てられているのでそれが常識になりつつあるのだ。いずれわかるようになるかといえば、母が誰かから受け継いだこだわりが40歳過ぎても生きているということは、そういうことになりかねないということなのではないだろうか?

結局夕食時にぎギャグにしてみんな大いに笑い一件落着となった。

これでいいのだ。

th_IMG_2278.jpg

 


nice!(0)  コメント(0) 

主体的であること [子育て日記]

長女の選択、決定が他人の誘導によって行われるものだといつも感じる。それにくらべて次女の決定は自から出ている。とはいえ、ふたりとも基本感情が決定の根本になってることには変わりないないのだろう。そう考えることで自分に何ができるか考えてみた。

意識していようといまいと、ふたりを比べるている自分たちがどこかにいるわけで、それはよいことでないのはわかっている。つまり自主性と言う意味で次女の方が優性と思ってしまっているとところをまずリセットすることができる。これはとても大事なことなのではないかと思う。

次に彼女たちの決意と言うものは、一体どういうところから生まれたものなのか、常に自分の中でも施行をめぐらせることができる。「どうせ、、、」と言ってはいけないんだ。どうせ感情的なものから生まれたものだろうと思っている限り、もしかすると自分の中にあるそういう部分も含めて批判的にしか見られないかもしれないし、つまりはなんらかの娘達からの刺激に対して、それがひとときの感情から生まれものだとしても、それに対しての反応を準備することができるのだ、そのことからはじめないと、逆にいつまでも感情に振り回される人間になってしまうのではないか?つまりそこから積み上げていけば、論理と感情を行き来することが出来る人間に育ってくれるのでは?なんて希望を抱いたりしている。

th_IMG_2213.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

反省すべき? [子育て日記]

子供がテーブルに端っこに置いていた1cmほどの」小さな花瓶を落としてしまった。「ごめんね、でもこんなところに置いていたのもわるいから半々だね。」といったら、子供が「そうだよパパと五分五分だよ」などというから、つい「こんなところ置いておく方が悪いんだよ!」と強めに言ってしまった。

 

これは「そうだね、今度から気をつけようね。」が正解なのだろうけど、修行が足らずというか、本当はフィフティーフィフティーと思っていないのみに無理にいい子ぶってふたりとも悪いと最初にいったこという、そもそもの偽善が間違いなのだろうか?

 

今日は今日で「わたしご飯洗ったよ。5時間くらい洗ったよ。」などというから「うそつけ!」といったら「10分」に言い直した。そんな発言が続くから「いい加減なことばかり言っているとだれも信じてくれなくなるよ。」などという正論的なことを言ったが、おそらくこれも正解ではない。

 

つまり自分自身が正解でないのだから、ある意味自分としては正解。どこかで「親ガチャ」を否定したいために自分以上の正解を探すのかもしれないが、どちらがよいのだろうか?これこそINSIDE OUT 自分に目を向けよ背伸びはばれるということだな。



nice!(1)  コメント(0) 

ぐち [子育て日記]

長女の「いやなこと、わからないことはやらない」が止まらない。


まだ「いやだからやらない。」の方がまし。ダラダラと先延ばしにして


例えば文章を書くのに1時間かけて2行だったりする。それが考えていない自覚もないとところがまた致命的といえるかもしれない。


父は父で手も動かさずボーッしていた聞くと「考えているよ。」というのにいらだっている。どこがわからないの?にも答えられない。わからないものはもしくは嫌なことはやらせない方がよいということか?楽しくてやりたことだけやらせないと、伸びないというのであれば、お絵かきだとかアニメになってしまう。算数の計算のできるところはやっていても九九はいやだから覚えないで。よいというのだろうか?いつかは覚えるだろうということだとしても今の割り算にはまったくついて行けていないことにはどう考えればよいのだろうか?


 


というわけで楽しい勉強会のはずが泥沼化していくのであった。


nice!(0)  コメント(0) 

父が怒ってしまう時 [子育て日記]

父が怒ってしまうこと

何かをやろうと電話して提案して、それを納得した後なのに、すぐさま別のことをしていた時。

何度言っても姿勢が治らない時、でもこれは克服した感がある。

 

いくら言っても学校の宿題を持って帰ってこないこと。これに対してはあまり気にせず、本人が自分でそれが必要だと感じるようになるまで待つことにして、家は家で別の勉強を忘れているときにすると言う方針を立てるとだいぶおちついて対処できるようになった。

 

いろんなものが散らかっている中で、よく父親が子供のものを片付けているにもかかわらず、父のものを一つ発見したら、なんでこんなどこにあるのと強い口調で言われた時。しかしこれも普段親がそう言っていることの裏返しであろうと言う事はわかっている。

 

勉強時間をたったの5分にして、集中力を絶やさないようにしてやっているのに、その5分すら集中できず、何度うながしてももぼーっとしている時。結局わからない時は頑張って考えようとしないことが多いのは、子供として当然のこととわかってはいるのだが

 

いずれにしても、姉は親が何か言えば何とかなるという潜在的な意識が両親のほうにあるように思うし、逆に次女のほうは、それができないと言うあきらめのようなものがあり、実際次女のほうがずっと親との約束を守る。

対策はいろいろあるのだろうけど、教科書的には宿題しなさいとか勉強しなさいではなくて今日何時から何分やるの?宿題をやんなくていいの?ではなくて、今日も宿題あるんでしょ?位がいいのかもしれない。

 

そういえば娘の察しが極端に悪い時も、つい怒ってしまったりする。ついこないだ熱を出したので、コロナの検査をしようとひざまついて、座らせたらわざわざ父親の方ではなく、机の方に向きを変えてすわるから、つい「こっち」と大きな声を出してしまった。こんな瞬間のことをうまく対応できるようになりたいものだ。

 

ただ今まで長女は親の期待に応えられないためにできないのに、それを隠すというところからできない事を認めて、それを言えるようになってきた、親がそうなってきたのだと思うがそれはある意味進歩だと考えている。しかし親が諦めることで子供がそれが許されると言うのは何か違うような気もする。3年後にはできるようにとか1年後にはできるようにね。などとなるべく言うようにしているがそんなもんでいいのだろうか。思うに、常に子供にどんなことがあっても、何ができなくても子供の味方でいてあげること、それが大事なような気がする。


nice!(1)  コメント(0) 

悪口 [子育て日記]

子供も小学生ともなると、「悪口」の話になる。発端は長女が〇〇ちゃんたちと遊ぼうと思ったら△△の悪口を言っていたのでやめた。という話し。

しかもその悪口は○○が長女と遊びたくないためについた嘘ということらしい。

長女は△△ちゃんの悪口の件よりそんな嘘をつかれた事にそしてそうやって自分を寄せ付けなかった事に憤慨していたのだが、そんな嘘をついたら長女が寄り付いてこないと思われている事が「長女やるな」というのが俺たち親の見解なのだ。

ところで、なんで悪口はいけないの?家(うち)で誰かの悪口と友達たちの間で言う悪口はどこが違うの?という問いに

娘たちは言われた人が傷つくからという解答だったが、

父曰く、本人に言うのは悪口でなくて文句。一番悪い悪口は周りの人を巻き込んで、誰かをのけものにするための悪口。だから誰かが誰かの悪口をその人がいないところで言ったとしても、それは間に受けず、自分の考えでその人を評価するだよ。的な事を言った。

どこまで理解してくれたかはわからないが、ある人が他の人が「あいつは悪いやつで、いつも悪口を言っているらしい」「へぇそんなんだ」という会話を横で聞いていて、「今悪口を言っているのはお前だろ!」と突っ込みたかたった話はウケていた。

父の願いとして、メジャーなところでいてくれるにこしたことはないが、悪口で共通意識を高めるようなところにいるよりは言われる側の方がよいということ。自分は絶対正しいと信じることができれば、きっといつかは仲間ができるはずだと、「聲の形」を思い出しながら思った。それから「不滅のあなたへ」と同じ作者ということに最近気づいて納得した。


nice!(0)  コメント(0) 

またやってしまった。 [子育て日記]

またやってしまった。長女の生活がだらしないのは、明白なのではあるが、先週あたりから、学校の宿題を家に持って帰って来なくて、そのままになると言うのを防ぐために、メモをカバンに取り付けてそこに持って書かせるようにした。

 

例えば提出物にしても、宿題にしても娘がないと言えば、もしくは出したといえば、それは自分たちにはどうすることもできないのではだ。それでいて時々学校の先生がこれができてない。あれができてないとメールをしてくるが、それだけに頼っていても、決して前もって予防的に警告してくれるわけでもない。結局親が管理、つまり宿題だの提出物だのテストの予定を把握して指導するということである。それらをキチンとやっておいて、成績もまあまあ良ければ、そういうプライドと周りからの評価が彼女を社会的に強くするではないかと自分は考えた。実際先週は先生に驚かれ、褒められ、本人も悪い気はしなかったようである。

 

今週は誕生日週間であり、子供たちもそして親もうかれていた。日曜日の昼頃になって、今週の宿題が1つも持って帰ってこられてないことに気づいた。これから子供たちと遊ぼうなどと考えていた父は機嫌が悪くなり、それでも娘は能天気に遊んでいるという始末であった。結局ちょっと促したら友達のところに電話をして、宿題の内容聞いて、それをやり遂げたので、父も機嫌が良くなくて、めでたしめでたしと言いたいところだが、9歳の誕生日に彼女に送ったメッセージとは違う、正反対のことを自分がしていると気がついたのだ。

 

それでは、学校の宿題やテストは、娘が持って帰ってこないのであれば、それはそれでよしとするべきなのだろうか?そうやって、いわゆる世の中の中で認められない存在になっていくようで、やはり怖いのであるが、それが親の価値観の押し付けというものなのではないかという怖れもある。

 

子供は9歳にして、そこまで自分の人生に責任を負わないといけないのかというとそれも違うのではないかと思う。

しかし、あれこれやれと指示すればロボットになっていく娘を見ているとやっぱりそれもおかしいと思うのである。

もしかすると娘の中には、それを意識していようがいまいが、持って帰らなければ宿題もやらなくていよいという知恵がはたらいているのかもしれない。

 

では学校のテストや提出物は娘の責任成績も娘の責任として、学力や読書力、思考力は親の責任とするのもありかもしれない。学校は遠いので、帰ってくるのは遅い、宿題があるなら、やってもらうし手伝いもするが、なければ父が勧めるお勉強をやる。という割り切りもありかもしれない。今日からやってみようか。


nice!(1)  コメント(0) 

子供への干渉は? [子育て日記]

姉や兄の影響で何かを初めて下の子が大成するというものをよく見かけるが、それは姉は親の監視の厳しいところでそだてられ、妹はその分自由であったことでのびのびしたことが成功の理由なのだろうか?まぁ逆もあって兄はあんなに出来るのに弟は何だ!などというのもドラマなどで見かける気もする。しかしその場合。たいていその実の内容ではなくキャリアの価値観の上での(特に親の価値観との合意)話のような気もする。

学校などの環境や、親どこまで親が干渉したかはどのように子供に影響を与えるのだろう。もちろんよい影響を与えたいとすべての親は思っているわけだが、どれだけ親の価値観や子供への期待を捨てられるかがキーポイントのような気がする。

 


nice!(1)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。