何度もはなしていることではあるが [今日話したこと]
直腸を患者に行うデメリットはなんでしょうか?1)患者に不快な思いをさせる2)ラポールが壊れるかもしれない3)時間がかかるめんどくさい 4)前立腺炎であれば痛い思いをさせ、尚かつ菌血症にさせるかもしれない。→しかし前立腺炎を疑っていれば直腸診をしないかもしれないし、見つけられずに発熱の原因がわからないこともまた大きなデメリット。
そしてラポールに関しては、病院がもつ直腸診文化や患者の心構えや説明で変わってくる。
ではメリットはなんだろう?そのメリットがデメリットを上回るのならば直腸診は行なえばよい。とっても単純なことでそれが自分達の仕事。そしてメリットの大きさはそれぞれの医師が考えればよい。日本では直腸診を省略しても、責められない文化がそこかしこにある。たとえそれが患者に有益なことであっても。
問診耶身体所見で得られる情報のなにをどれだけ集めればその検査の適応となるかということを見極めるのが自分達のおおきな1つの仕事。そしてもう一つは、検査の結果を解釈する事である。
なにかが否定しきれないと言ってしまえば全てが否定しきれないわけで個人のことを考えると感情的にできる事はやってあげたいと言う気持ちが働くが、そのような思考で仕事をする事は若い医師は自分達の進歩を妨げることにもなるし、それが結果的に長い目でみて患者のためにならないかもしれない。
そういった±のバランスの取れたところで検査の特性とを合わせて考えた上でバランスの取れたところでその適用を決めるそういう能力をつけることが我々の使命であると考える。ただそれは個人の経験だけでは編み出すことができずエビデンスと合わせて決定していくことになる。
気がつけは彼岸花
厚木勉強会 [今日話したこと]
今日は研修医達とCOVID19の検査をどのようにすることが日本でコロナ感染の拡大を防止できるかという話をした。話の発端はLamp法がPCR検査と比べてどう違うか?から始まり、研修医の先生がPCRより感度も特異度も少し悪い。というので、では特異度が100%から1%落ちるとはどういうことなのか
?という論点で話を進めた。この話は、PCR検査は特異度が100%であるかのように語られているが、そう考えないと不都合なことがあるからそこから目を逸らしていたい、という現状を知ることにもつながった。
感度70%特異度99%とすると、例えば有病率1%として300万件のPCR検査をすると3万人の偽陽性者が出る。それでいて日本全体で無症状感染者が117万人ほどいることになる。また検査前確率を5%に上げて3万人の人に検査をすると119万人が結果の出ていない無症状感染者ということになる。
結論として日本のように有病率が低いと思われる国では検査をすればするほど偽陽性者も偽陰性者も増え、そして、かなりの検査をしても無症状感染者の数はそれほど変わりないということから、検査を無作為にすることは感染拡大に影響しないと考えるのが打倒ではないかとなった。
だとすると疑わしい人は休む、国民全員が気をつけると言う一番最初からあった方法に回帰するのがベターな方法であると言えるのではないか。
PCR検査を行って欲しい理由に職場がそれを欲するという問題があるが、会社や病院を休む基準は、専門委員会や組織が決めていくのが良いのではないかと思う。基準の項目の共通の項目を決めればデータを蓄積することができてデータとして残るものは無作為に検査をしてもその後も追跡すれば検査前確率をどんどん上げるような項目に再編成していくことができるのではないかと思う。
・その他
BCGの検査は条件を揃えて比較するデータがないので正確な付けられないのではないか
検査が最も客観的という考え方は、医療者側が作り出したものであるし医療者自身もそれを十分に理解してない人もいる。これは末端でもそしてシステムがつくった医療経済的な利害も関与していると思われる。
それにしも、しかし感染力は発症前2日が強いことが証明されているようだが、無症状PCR陽性者が感染力がない条件が発見できないものだろうか?
帰宅時に「そこまで言って委員会」をTverで観た。世田谷モデルとやらの話をしていた。この人達もかなり勉強してかなり正しくなっているのに関心した。
初めての愛車とタクちゃん即買い!
誰のための診療? [今日話したこと]
患者さんは高齢コミュニケーションは何とかとれている。寝たきり患者は家族の顔をすでに認識できなくなって5年以上になる。
肺炎で入院してきたのだが、我々の仕事はもちろん肺炎を治すことであるが。どうして一抹のむなしさが残るのだろうか?
超高齢者は難しい。一つば御本人とコミュニケーションをとれないことが、医師のモチベーションをおとし、また誰も口にできない、この人は生きていて幸せなのだろうかという漠然とした疑問がさらにモチベーションを落とすことになる。それとも若いDrは何の疑問も持たずにただ、患者の為になることを行っていくのだろうか?そしてそれは、よいことなのだろうか?私はむしろそこに一抹の不安を感じる。
我々に仕事はいったい何のためにあるのだろうか?もちろんカケガイのない命を守ることなのではある。それはとてもシンプルで、誰も異論を唱えることができない。
では、生きているが故に不幸な場合はどうであろう。借金で首が回らなくなり、家族の為に保険金ねらいで死を選んだ人はどうだろうか、これは我々には判断できることではない。それこそ黙々と命を救う努力をするのみである、それが、もしより家族への負担をかけることになったとしても。
では、乳母捨て山についてはどうであろう?もし昔の日本人が子供達の迷惑になるのであれば自ら死を選ぶということが形を変えて現在おこわなわれていたすれば、それは寛容できることであろうか?答えは否である。
というわけで我々な漠然とした疑問も感じながら、老衰と病気の 狭間の人を診ているのだろう。
ただ、誰のためか?と言われるとこれは患者本人よりも家族のための意味合いが強くなる。つまり、家族の人が経済的にではなく、心理的に安らかに家族の死を向かい入れていく過程を作ってあげることが重要なのではないかと思う。これは我々に命に対する限界へのいいわけととらえられるかもしれない。しかし、我々は微力である。高齢者診療は自分たちの無力さを思い知らされるということろも、敬遠される理由の一つかもしれない。我々もその、死を受け入れる必要があるのかもしれない、でないと逆に家族に期待を抱かせた上に最終的に、疑問に変わったりすること起こり、これがもっとも家族にとって不幸なのではないかと考える。
保険のためのDNARではなく、家族が受け入れたことの結果としてのDNARでなくてはならないのだ。
無力な我々は、家族の患者の死後の思い出のために私たちはする事を考えるのだ。
何度でも言うが診断は誰がつける? [今日話したこと]
それは「診断は自分でつけなさい」
検査を受けるかどうか、専門医を呼ぶかどうかだけをを決めるのが研修医の役割だと思っているのなら、レベルの高い医療は望めない。
どんなに優秀な放射線診断医も画像だけで正確な診断はできない。
例)左の股関節痛で来院した人にMRIを施行。
読みは外傷。穿刺したら膿だった。
緩徐発症 糖尿病そして発熱、身体初見から感染性関節炎の疑いを譲らなかったから穿刺までお願いすることになったのだ。
例2)
腹膜透析中の人が腹満と発熱で来院。
普通は腹膜炎を考えるのだが、CTを撮影して専門医に依頼。急性の経過だから消化管穿孔を疑ったというのだが、果たして、、それだけの情報でCTで診断つけろというのか?
例3)リスクのある胸痛のひとがEKG正常で酵素が上がっていないからMIは否定的という。そうやって機械的に否定できるのなら苦労はしないというものだ。胸痛にもいろいろある。どれほど疑っての心電図なのか? 次の検査に行くかどうかはキミが決めるのだ。
例4)
入院中の患者さんが30分ほど前に胸痛を訴えておられました。「それで?」聴診してみたんですけど心雑音も聴取できなくて、「心雑音が聞こえたらなんなの?」肺の音もきれいで「肺の音でなにがわかるの?」「・・・」ACSやdissection は考えなかったの?「そんな感じじゃないんです」「そんな感じってどんな感じ?人の命に関わるような疾患を医師になって半年の君の勘で否定するのかね」例えば心電図の侵襲は0でしょ?コストはかかるけど、それでまず否定なぜそれをとるのに躊躇が必要なの?「検査の侵襲」/「疾患の重症度×疾患の可能性」が低いほど検査の閾値も低いのではないかな?一番大切なことはなに?患者の安全じゃないの?もちろん心電図をとったから否定できるものでもなく最終的には”君が”きちんとと重症疾患を否定するのですぞ。
うーんサンドイッチ不成功。でも通じたようだった。検査をできるだけするなと言っているのではない。担当の医師が軸をしっかり持って検査を行わないと結果に振り回されることになりかねない。と言いたいのである。
内科を選んだもともとの理由 [今日話したこと]
そして今は全然違う世界にいる。そんなフワフワとしたよく言えはidealisticな理由で内科を選んだのがつくづく自分らしいと思うのだが、信じることは譲らないことを信条とするわりには意外とextravertであることが振り返ると思い知らされるのであった。