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誰のための診療? [今日話したこと]


患者さんは高齢コミュニケーションは何とかとれている。寝たきり患者は家族の顔をすでに認識できなくなって5年以上になる。
肺炎で入院してきたのだが、我々の仕事はもちろん肺炎を治すことであるが。どうして一抹のむなしさが残るのだろうか?
超高齢者は難しい。一つば御本人とコミュニケーションをとれないことが、医師のモチベーションをおとし、また誰も口にできない、この人は生きていて幸せなのだろうかという漠然とした疑問がさらにモチベーションを落とすことになる。それとも若いDrは何の疑問も持たずにただ、患者の為になることを行っていくのだろうか?そしてそれは、よいことなのだろうか?私はむしろそこに一抹の不安を感じる。

我々に仕事はいったい何のためにあるのだろうか?もちろんカケガイのない命を守ることなのではある。それはとてもシンプルで、誰も異論を唱えることができない。
では、生きているが故に不幸な場合はどうであろう。借金で首が回らなくなり、家族の為に保険金ねらいで死を選んだ人はどうだろうか、これは我々には判断できることではない。それこそ黙々と命を救う努力をするのみである、それが、もしより家族への負担をかけることになったとしても。

では、乳母捨て山についてはどうであろう?もし昔の日本人が子供達の迷惑になるのであれば自ら死を選ぶということが形を変えて現在おこわなわれていたすれば、それは寛容できることであろうか?答えは否である。

というわけで我々な漠然とした疑問も感じながら、老衰と病気の 狭間の人を診ているのだろう。
ただ、誰のためか?と言われるとこれは患者本人よりも家族のための意味合いが強くなる。つまり、家族の人が経済的にではなく、心理的に安らかに家族の死を向かい入れていく過程を作ってあげることが重要なのではないかと思う。これは我々に命に対する限界へのいいわけととらえられるかもしれない。しかし、我々は微力である。高齢者診療は自分たちの無力さを思い知らされるということろも、敬遠される理由の一つかもしれない。我々もその、死を受け入れる必要があるのかもしれない、でないと逆に家族に期待を抱かせた上に最終的に、疑問に変わったりすること起こり、これがもっとも家族にとって不幸なのではないかと考える。
保険のためのDNARではなく、家族が受け入れたことの結果としてのDNARでなくてはならないのだ。
無力な我々は、家族の患者の死後の思い出のために私たちはする事を考えるのだ。

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