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小さな大事件 [つれづれ]

考えてみると、自分は自分の生き方と言うものは、自分が正しいことが

自分が正しいかどうかが大きなウェイトを占めていたように思う

そしてそれが正義だと思っていたように思う。自分の考える正しい考える行動や言動以外の人の行動を認めないわけではないが、少なくとも自分が間違っていると思えるなことをしないことが、自分の人生の根幹にあったように思う。もしかすると、前妻は正しく自分が間違っていたから別れざるを得なかったのかもしれない。そして今の妻は間違いだらけでだからこそ自分が生きていけるのかもしれない。自分は今の妻が間違っている事は問題ないと考えていたが、そのことが子供たちに及ぶのだけは避けたいと思うようになり、妻の間違いを直したいと思うようになった。もちろん、その間違いというのも自分の価値観の上でのことであるのは言うまでもないが、一般的にも間違いとは言わなくても、正しくない事はたくさんある例をあげれば、キリがないが、自分は子育てとは奉仕の喜びと考えているのだが、

例えば妻は何かにつけて、子供よりも自分を優先することが多い。その母親も近くに住んでいながら、子供たちを長期預かって、自分たち夫婦が遠くに出かけさせてくれることが1度もなかった、妻が1人でコンサートに行くのに、託児所に預けないといけないことが何度もあった。妻の姉は、その母親と一緒に住んでいるのに、なぜか母親の用事のたびに自分の妻が呼び出される。そんな習慣を引き継いでいるのか、騒ぐのならば私が寝ている横の部屋でさわげと言う。子供には居間にものを置くなと言うが、自分は今のテーブルの上にここ何年間も自分の私物を置きっぱなしにしていた。私がどんなに近くのスペースを作っても。そこもまたものでいっぱいになり、机の上に私物が置かれることになる。トイレは汚い所であるということがが感情的にしみついており、子供が地面に座ることことやカバンを置く事はヒステリー的に嫌がるのである。子供がご飯を上手に食べたり、正しい姿勢で食べることよりも、子供が服を寄越さないことのほうがずっと重要のように注意する。風呂場の髪の毛を嫌だという理由でなかなか片付けず、ずっと私が片付けていた。自分に正直と言えば、そうなのかもしれないが、ある意味すべてのことが何かの反応によって決まっているように思える。その根幹になる理由をもたないそして、それだけに、その主張は強く他を否定する。また否定しないと主張を通らないと経験がそうさせているのかもしれない。結局は感情に支配されているのである。おそらく私に対しての家でトイレの後に手を洗わないこととか、朝起きてすぐに歯をみがかない(自分は食後がいいと思っているのだが)には不満に思っていて、そういうことをその不満が、子供への感情的な怒りに通じてるように見える。というわけで、彼女がいろんなことを間違っているおかげで、私は自分が正しいことを確認しながら生きていけているのであるが、先に述べたように、それが子供に伝播していると感じたときに、私は強い憤りを感じてしまう。

つい先日、大きな事件があった小さな事件なのになぜ大きな事件になったかはあったかを考えることで、今回の発見になったわけである。嫁は居間の自分が気に入っている側しか掃除せず、片側を散らかし放題であったが、はげしくたまったゴミを掃き出しては、こちらも掃除するようにアピールをつづけていたところ、片側に自分が本を置いていることを、娘に愚痴った上に、それを注意しないのは逆ギレされるからだと話していたことを娘から聞いてしまったのだ。居間には子供の学校のプリントは自分だけの筆記用具、そのほかいろんなものを整理されずに置いておきながら、少しの本が置いてあることを注意する資格などないことを重々しっているからしないところを逆ギレということばで子供を悪い方の味方に引き込もうとしたことは許せないと思い、今まで自分が妻に対して少しずつ直してもらってきたとおもってきたことがすべて振り出しに戻されたされた気分になり。この人を選んだのは間違いではないかとさえ思った。

 

それで三日間考えたわけだが、やはりどうやら自分は自分が正しいことがものすごく大切な人間な人間でそれを認められないことが耐えられないのであることに気づき、また夫婦はいつも話し合って決めるべきだろうと、自分は妻に言っていたのだが、妻はそれをいつも無視して、自分がいいと思うことを子供たちにしつけていたところがあったのだが、私が正しい理論武装でいつも構えているためにとてもこの人をやり込めることができるわけがないと、戦い(話し合い)を避けていたのではないかということにも気づきだ。

 

つまり少しずつ私の考えに(特に教育方針)に傾倒してきていることに私は少し満足感を感じていたが、それもこれも彼女の内側からの賛同ではなく、自分の発することの反応としての変化にすぎなかったのである。つまり、理論として正しいことが必ずしもよしではない。そのことを理解しなければ、彼女と本当に話し合う事はできないということなのだ。自分は妻の今の姿は、環境によって就職されたものであり、いつか変わってくれる(本来の自分に戻ってくれる)のではないかなどという幻想をいだくことで、耐え忍んできたことがたくさんあるが、本当の意味で妻の中にあるものがほとんどが反応であることを理解しない限り。つまり正しい事とか間違っているという理屈では説明できないことを理解し、自分の正しいがいかに妻にプレッシャーを与え続けてきたということを理解しないと、

夫婦が本当の会話をできないように思うし、結局父の「正しい事」は子供に伝わらないのだ。この人を妻に選んだのはある意味自分のエゴでもあるし、そのエゴのおかげで子供にまで悪い影響を与えるわけにはいかない。自分が正しいということで簡潔してはならない。inside outは十分にその人を理解し認めたことから始まる。こんなことに気づかされた小さな大事件であった。

 


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