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マスとコ [つれづれ]

コロナ禍でオリンピック直前に緊急事態宣言が出たが、これが出ないことで1人でも余分に死ぬかも知れないことに焦点を当てると、出さなければならない、いや、出し続けなければならない。そんなことをいったらすべての経済を止めて引きこもるのが一番であるのだが、それができない以上、グレイ(トレードオフ)のところでやっていくしかない。

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マスと個,例えば、頭痛で病院にくる人100人のうち1人致死的な人がいるとしよう。ある基準以上の人が30だとして、まずその中にその1人は入るという基準である。つまり勝率は30分の1。もしこの基準で1万人の中の300人に検査をしたら、致死的な人は9人しか入らず、1人落とすかも知れない。その1人がとても大切だから基準なんか決めで、あとは検査をしないなんてダメなのだという思考がある。確かにそれも一理あると思うし、感情的な面でもそうしないと不幸せな人が出てきたりする。では感情的な計らいで検査を選んだり、念のため意識ばかりで検査を選び、1万件の頭痛に対応したら、10を捻出するために8000件という数をこなさないといけない。そしてしぼるという努力をいとうことは、検査までの情報に真摯になれないならば、それは過去の人類の知恵を使っていないということになり、8000件の検査をしてもひとりくらい漏らすかもしれない。つまり検査自体を補正する力がその医師に備わっているかとう問題もあるということである。

というわけで結果しても、患者のためにはどちらがよいかわからないのではないか?というのが自分の持論である。もちろんくっきり分かれるわけではなく、考え方の問題なのではあるが、どこに利益があるかを別々に考えると、逼迫した医療経済からは3000件。検査希望の患者さん側からしたら8000件かもしれない。そして病院的には8000件、若い医師の鍛錬としては3000件へのトライをつづけることだろう。

日本人だけだろうか?俯瞰してものを見ることに納得できない民族は、、、

コロナ禍でオリンピック直前に緊急事態宣言が出たが、これが出ないことで1人でも余分に死ぬかも知れないことに焦点を当てると、出さなければならない、いや、出し続けなければならない。そんなことをいったらすべての経済を止めて引きこもるのが一番であるのだが、それができない以上、グレイ(トレードオフ)のところでやっていくしかない。つまり、必ず誰かがこの感染で死ぬことを受け入れずに人は表を歩けないのだ。仕事もなにもできないのだ。だからグレイのところは大局的みるしかないのだ。目的は個人的な利益なのかただ不安なのか?ひとりひとりの死を人質にして対局の利を無視する人たちがいて、それを無視できない風潮はまだまだある。そこのところはもしかしたら日本全体すべての事象において流れている風なのかもしれない。


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