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誕生日、母に日によせて、 [つれづれ]

ハーモニーとはいったものの、ひとりの人間として独立することは重要だと思う。



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かに、ねずみ、カブトガニ?

 

人はじぶんの法律、世間の法律で生きているけど、その度合いは人によって違う。自分はどちらかというと自分自身の法律を重視していることは知っていると思う。では君はというと「どうせ母親のいいなりとでもいうのでしょ?」と言うと思うのだが、確かに君の場合母親や、姉たちとの法律の主張のしあいで関係が築かれてきたようで、それに負けたら従うしかない。そんな感じではないのかなぁ。で僕と出会って違う世界に同意する部分もあって、でもだからといって僕の法律で生きるわけでは当然なく、実際はそこまでの人生や生き方に対するこだわりはないように思う。それでも、非常に局所的な部分での感情の根底の部分からの拒否反応は、もう消えることはないのだろうか。例えば、部屋を全く掃除しなくてもソファーがまっすくでないのは許せない。とか、子供なのに食事をこぼしたりするのは許せない。子供が地べたに座ることや荷物を置くことは許せない。この辺りが限定的にしかも反射的に感情に直結するのは、子供のころからのイニシエーションだとは思うが、多少の矛盾が自分のような親の枠が全くなく、自分のなかからじぶんの生き方を見出してきたものからしたら、理屈にあわず、もしかしたらそれが許せない。つまりソファが歪んでいることで起こるなら、1週間以上ここに放置されている書類をなんとかしてから言えば?考えてしまう。

7つの習慣から、コヴィさんの妻がある電化製品に異常にこだわった理由が亡くなった父親にあったという話しがあったが、それと似たようななにかの深層心理的なものを感じる。それから解放してあげることは出来るのだろうか。以前は地べたに座った子供に必要以上に怒ることをなかなか受け入れられず、何かを感じて注意こそしなかったが、否定的にかんがえていた。そして最近は少なくとも敵対しないことかな、なんて思い始めているが。

子供の小学校の受験には余裕持ちすぎて遅れてくることがあるのに、母親との待ち合わせでは赤ん坊がいるのに1分でも遅れることができない、そういう親子関係から脱することができない部分は別として、ずっと以前から根底の部分で似たもの同士なのではないか?と感じている。そう、言葉では説明できないが、そんな部分があるからこそ、今でも一緒にいられるのではないだろうか?そんなこと考えている今日この頃です。


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