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決心 [今日の出来事]

そもそもの発端はM先生からのひとつのメールだった。彼はアメリカで医療者として成功しており同時に日本の医学教育に憂いを持っている人の1人でもある。それまで一度しか会ったことがなかったが、その時に自分が外来で研修医の様子をビデオに撮っていると話した時に彼の目が少し変わった気がした。ただそれだけのことではあったが、そんな自分を覚えていてもらって、おまけにアメリカから電話をくれてあるプロジェクトに熱心に誘ってくれた。自分はその時父親のクリニックの後方支援病院で4年目に突入したところで、あるひとつの壁にぶち当たっているところだった。「どんなに言い続けても彼らにはその傘の中での方向に従う。」というものだった。彼らとともに過ごし、いろんなものを共有したが、結局自分がいちばん伝えたいことはグループ内の一言で消えてしまう様を見せつけられる日々だった。


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ポーポジションはオレだ!

そんな時、

病院をひとつ買い取って教育に特化したものを作るというお誘いは自分が感じていた壁を取っ払ってくれる気がした。

母親が病気であったために帰郷したにもかかわらず、私はその話しに乗った。経済的な尺度で医師を測る上層部への優越感?のようなものもあった。

引っ越しも全て整い、さて乗り込もうという忘れもしない3月25日。買収は進んでいない上に約束していた、給与も払われないことを聞かされた。落胆というより唖然としたのを覚えている。「これは詐欺ではないのか?」しかしM先生に全く悪気がないのは明らかで、買収は絶対成功するからそれまで待っていて欲しいと言われ、自分のフリーター生活が始まった。これは案外スムーズに移行し、自分は家族との時間を楽しんだ。幼稚園のお迎えなど、自分は一生出来ないと思っていた。それでいて収入はそれほど下がるわけでもないおかしな世界なのだ。

買収の話しは二転三転した。本命の病院のそばでなく妻の実家のそばに居を構えたことが逆に幸運だったことになっていった。

結局買収は失敗に終わり、それでも病院を間借りすることでプロジェクトは開始することになった。そのプロジェクトとはいろいろな大学と契約し、大学の単位としての臨床実習を請け負うというものだ。そしてアメリカでの臨床研修を目指すものたちがこの病院に勤めることで、集まらない人財を確保することにも成功した。このプロジェクトのための人財とは言い切れないのではあるが。

間借りする病院には大きな問題があった。遠いことである。今の家から2時間半程度通勤に要する位置にある。偶然とはいえせっかく掴んだ家族との時間を奪われるのか?それほどの価値があるのか大いに悩んだが、正直とても自分の第二の人生目標となった「家族との生活」を捨てるほどの価値があるようには思えなかった。その理由は自分の中のもうひとつの「伝えたいこと」にある。故郷で研修医たちに臨床推論の方法、面接の仕方などは毎朝のロールプレイやPBLで少しずつ伝えられたように自負しているが、自分最も伝えたいことは日本の医師に共通して、なんとかしないといけないと思っていることであり、Choosing wiselyと、ジェネラリズムである。後者を伝えることは、それがダチョウ倶楽部的であっても、自分を犠牲にすることを惜しまないというものになりかねないため、どうやって教えられるのか未だに自分の中で葛藤がある。若い時には犠牲になる自分を見せることで、共感を得られたが、反面それが反面教師にもなった。もし多くの人がそれぞれ犠牲的精神を発揮すれば、それは誰も犠牲者にはならない。というのは理想だろうか?あいだみつおの「わけあえばあまる」の精神である。

自分はもし病院が買収できればそれが出来ると夢見たのだ。ところが今間借りしている病院は、仕事を守ることで生きながらえる空気が蔓延しており、いかにいやな仕事を人に委ねられるかを仕事の大部分にしている人たちの集まりなのである。

今までここまでの病院で働いたことがなかった自分は、その強烈さに身震いする毎日な訳で、

自分が学生に犠牲的(いやボランティア精神と言おうか、それともジェネラリズム?)であるところの、結局診ることできる患者は診る。という患者中心の考えなのだが、平気で自分ではないという人たちの中で、総合内科という弱みとともに犠牲的患者中心を発揮すれば間違いなく家族を犠牲にする。逆に同様に「あなたが診ればいい!」と戦いの中に身を投じたら、それは自分の最も伝えたいことが伝えられなくなる上に、自己嫌悪に悩まされる毎日となる。このような環境の中で犠牲的患者中心を、犠牲的でなくするためには圧倒的はマンパワーが必要なのである。これが私が20年以上勤めて出した回答である。もちろん逆に全くパワーがなければそれはそれで力があれば隙間産業で成り立つこともあるのだが、それは専門医たちが十分充実して余裕がある時に限るのである。

というわけで、私は学生たちにはただ、臨床推論の考え方を教えるのみに留め、どっぷりと参加するのを諦めたのだが、そんな中途半端がいつまでも通用するわけもなく、ましてアメリカを目指す人たちが集まって来た。これでうまくやれば、仕事量的な犠牲を自分にも彼らにも課すことなく、ジェネラリズムを全う出来るのではないかと考え、キチンと参加することに決めたのが昨年の12月の出来事。とはいえ、どこまでうまくやれるか?どこまで家に帰られるかを考えるとずっと心が重かった。そんな中で、宿舎の件や外勤の件、出勤時間の件など決める前よりどんどん条件が締め付けられてくる。

まぁ条件に関しては我慢できるしやれるだけやろうと考えていたところ、事件は起こった。内科トップの先生がいろいろと来年の計画を考えているのは知っていたが、自分には相談されないので、思い切ったどうなっているのか質問してみた。それに対して、こういう方法もありますと言ったとたん突然激怒して、「嫌なら来るな!」と言い放って行ってってしまった。追いかけてなぜそんなに怒っているのですか?と聞いたが返事はなかった。その計画とはあからさまに元々いた医師を守り、私たちのプロジェクトの者には選択権がないものだった。

今まで自分に詳細が知らされなかった理由がわかったし、再び自分の中の犠牲なし患者中心の夢は閉ざされることになる事実を突きつけられたのだった。

もうやめようと思っていることを冷静に文章にしたらまた決心が変わるかもしれないと思ったが、むしろ決心は固まってしまった。


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