刺激と反応までのあいだにあるスペースは自分の感情でも考えでもない。
それは客観的なもう1人の別の自分ということなのか。
自分は感情こそが偽りのないそのひとを表すものだと考えていた。しかしコヴィーは人間だからそれをコントロールできるはずだと言っている。
また、アドラーは怒りは可能性と傲慢さの表現だと言っている。
いずれにしても人間は感情があるからこそ人間であり、歴史そのものでさえ感情で作られているのだ。コヴィーに言わせると多くの人間が未熟ということなのか。自分は常に3人いてそれがすべて自分なのだという訓練が成熟というのかもしれない。