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2021-03-16 [医療]

私はこの20年日本の大部分の医師は自分の専門内の疾患を診ることこそが価値があるという教育をされてきているのをみてきました。


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「このビルも嫌いじゃない」


 

それにより、専門外であれば断ることができるからという思考から発展して、忙しければ断れる。という思考につながり、特に都市部ではいわゆる「たらい回し」が起こり、最後に受けた病院が訴えられるなどの現象が多発しました。(ただ、通常の業務を患者さんを見捨てられないばかりに無制限に行っているという背景が根底にあることも原因していますが)それに対応するように救急医療に関しては救急医が育ちましたが、ホスピタリストの数は圧倒的に足りていない状況です。入院患者は高齢化が進むなか、ACPがほぼ行われないことも手伝って(行われても施設で最期まで看るところはまだまだ少ないです)、寝たきりの高齢者感染症が非常に多く、救急患者と勤務医が認められないような人の救急医療とその入院がひとつの大きな問題となっております。多くの病院、または専門医はそういった患者を総合医にみてもらうことで、自分の仕事に集中したいと思っています。


ところが、総合医療を専門とするホスピタリスト(日本で内科医は外来、救急、入院をすべて診るというのが通常です。そして彼らのほとんどが専門医としての教育しか受けてきていません)は存在しないため、救急医や専門医もシェアしながらしぶしぶみているというのが現状です。(救急医は集中治療に特化していることが多いようですが)ですが多くの専門医でシェア(たいてい若い医師に任せますが)していることが、逆に総合医が少ない(いない)ことを補填しているのです。そして総合医がそのニーズにまったく足らないマンパワーしか存在しない場合に、専門医のが渋々シェアしていた症例がすべて回ることになり、総合医の仕事量が無尽蔵に増えることになるのです。そうやって今の高齢化社会に必要と考えて総合医なった人々がつぶれる様を見てきました。


 


実際以前勤めていた病院では各専門医が快く引き受ける、治療しがいのある症例(便宜上S症例とします)とそれ以外(R症例)とほぼ同等数存在し、S症例に入るかどうかの判断基準は専門医が持っていました。


よって専門医がS症例をとりR症例に加え、RS症例(専門医には入らないが難しく、医療技術を要する症例)を総合医が診るという構図は専門医の合計に匹敵するほどの数の総合医がいて初めて成立します。


 


欧米では専門医になれなかった者が総合医になるという風潮があるようですがそれ故総合医の数が圧倒的に多く、アメリカでは50%、オーストラリアでは60% それによりライフワークバランス=インセンティブが保たれているようです。クィーンズHpの330人の入院ををホスピタリストが50人で診るというのはその良い例ではないでしょうか?あとの170人は専門医も入院を診ているらしいです。


それは国が、どういう割合で専門医が存在することが市民にとって有益かを考え、大きな力で作用しているが故に可能なことだと考えています。


日本もこれに習い、専門医制度に人数枠を作ろううとしましたが、各学会や大学の反対にあい失敗し、新後期研修生の中での総合医は3%にも満たないのが現状です。それ以前の世代では当然もっと少ないです。


 


では専門医が振り落とした患者は誰かがみないといけないわけですが、自分もそういう患者を診るこには全く問題ありませんし、そのために総合医がいるとは考えていますが、やはり先ほど申し上げたほどのパワーがたりない場合は専門医のシェアするシステムがどうしても必要だと考えています。集団としてないと総合病院では非常に難しくなってきます。


そして病院内に総合医が存在することがそのシェアするココロにむしろ弊害を与えているというのも事実なのです。


 


例えば 今の病院での先生の提案で進めてみます。S症例が50、R症例が50だったとしましょう。S症例は5人専門医がいて4カテゴリーあるので6人の後期研修医に8人ずつに割り振られます。


R症例もまた8人ずつ割り振られ、こちらの主治医は私1人となります。そしてこれにRS症例が加わることになります。


主治医が診る患者は専門医が1人8人ずつ。


総合医はひとりで50人となります。しかも6人の後期研修医全員にに6人の別々の主治医がいるという状態でということになります。


仕事はバラバラになって後期研修医任せになり上級医の管理は崩れるでしょう。


 


私の考えは、


後期研修医が6人いるとすれば


S症例5人の専門医にJS3人つけて 50人を4人で診てそれを6人で管理する。またR症例を3例ずつ4人に割り振ることで


6人の管理者の1人あたりの管理する患者は11人となります。


あと2人が総合専属となるのですが19人ずつ診ることになります。


ひとりの総合医指導医も38例で後期研修医が2人ならば管理できそうです。


ですがここの先生方は総合医が来ると言うことでR症例を全部見てもらえるということのみの価値観に基づいて計画し総合医の反論に備えていたのだろうと推察します。なので「こんな方法は?」の提案に耳を貸すことができなかったのでしょう。


それにしても非人道的な態度ではありましたが、、、


 


先に与えることから相手の懐に入り、相互共存(win-win)の関係をもくろんでいた私は、出だしから先手を取られて強制的に(win-lose)を命じられ、与えることができるという武器を奪われてしまったのです。このため対立でしか自分達を擁護できない最悪の構図ができてしまいました。与えることができなければ、戦うか耐えるしか出来ません。屈辱や理不尽に耐える覚悟はありますが、生活を犠牲にする気はありません。なのでどうせ耐えしのぎ、数年後の成功を夢にみるのであれば、自宅に近いところで行うことで、生活との両立をもくろむことができると考えているのです。


 


では自分が参加しなかったらどうなるか?おそらく私に回す予定であった負担はどこかで分散されるか計画者が請け負うことになるのでしょうが、それをも捨てられるのは、詐欺めいた誘惑で人生を狂わされたという被害者意識からいまだ逃れきっていないのでしょうし、仮にここで無理を通せば勝手に自分が作った貸しを一生持ち続けることになり、それは何かが起こる度に自分の中のよりどころとなり、今ある仲間(とも言えないですが)との間にある不調和を少しずつ広げていくことなると思います。


 


だいぶ頭の整理がついてきました。自分は人生の最終段階は家族を優先して過ごすという自分の誓い忠実に生きようと思います。


 


乗りかかった船から中途半端に降りることが悔しくて、しがみついていましたが、やはり片道2時間半の通勤は遠く、遠いからといってそれに甘えることもできないし、人数が増えたからといって家族との時間が確保できるわけではないことを今更ながら気付かされました。


 


自分は京都に住んでいたのですが中学の時、滋賀県という離れた場所に入院もある医院を開業した父を軽蔑した自分を思い出しました。


なにかあった時に駆けつけられる者が主治医という考え方は古いかもしれませんが子供の頃の自分にまで軽蔑されたくはありません。


 


患者中心のジェネラリズムを伝えるという自分に課した使命も自分が本気で医療に身を投じないと伝わらないということもわかっているつもりです。


 


○○先生との一件でこのお話は静岡と決まった時点でお断りするべきであったことに気づかされました。ある意味感謝です。ただ、常勤になると決定することでいろんな方の本心を引き出すことができたことも事実です。


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