忠臣蔵
アルバイトで近くに寄ったので、吉良上野介の屋敷跡に立ち寄った。赤穂浪士の美談として記憶に刻まれているが、歴史は事は基本的には誰かのフィルターを通して伝えられたことではある。
それは、今流に言うなら面白おかしく、昔で言うなら人情に訴えるようなカタチでまとめられ受ける方向に少しずつ変換していった可能性を考える。
確かに時代としては、仇討ちというものが正義であった時代だったのだろうが、少なくとも殺人が美談として人々の心を打ってきたということであろう。
屋敷跡の一角には吉良上野介の人形がおかれ、その時の様相の絵や家の見取り図などがあった。もっとも印象に残ったのは吉良家の家来達の墓標であった。当たり前のことだが、命を落としたのは吉良家の人たちにもいるのだ。そして、しかもこちら側のひとは末代まで屈辱を背負うことになっているのだろうか?歴史は言い伝えのみを鵜呑みにしてはならない、時々臨床推論でも病歴から割り出そうとしたあとで、一旦事実のみを中心に考え直すことがあるがこれに少しだけ似ている。
その後勝海舟の生家跡を通ったが、忠臣蔵のようなことがもてはやされた時代に、いろいろな策を高じた上で、江戸の民を救うために負けた彼は、なんと優れたヒトであったろうかと感動まで覚えてしまった。
2020-12-05 06:47
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