SSブログ

ある知り合いの死 [カンファレンス]

あまりにもわかりきっていることなのに、死を受け入れるのは容易ではない。生まれたときからわかっているはずのことなのに、

突然事故死を聞いて彼との思い出があるわけでもないのに悲しい気持ちになる。それは”失う”事への悲しみなのか怖れなのか?

心が一度は通じ合ったひと、芸能人、新聞の片隅で見つけた人、家族、会ったことがあろうとなかろうと、その人のその人たる所以が自分のなかにあるかないかで失ったものの大きさが変わってくる。

小学校2年生のときの隣のクラスだった高原君会ったこともなかったけれど当時の自分はその死をなんとか受け止めようとした。

高校のとき琵琶湖で死んだ吉本くん。スイミングスクールで一緒だった田中義治、木村洋二、大学の時の森脇君後輩の女の子、三橋君。高校同窓生の坂さん、彼らの死を考えればいつも自分は彼らの死を自分の延長上にある死を結びつけることから避けようとしてきたように思う。それは、多く亡くした患者さんたちに対してもそうかもしれない。それはいつかすぐかもしれない明日にでも自分に確実に訪れるものを拒否しようとしているのかもしれない。自分の母の死ですら。

しかし今回多くを語ったこともなく、ただ同じところで働いていたという彼の死。それを自分はちゃんと考えてみようと思っている。だれの死でも自分の並列にあるはずなのだが、そのことから逃げずにいようと思う。その意味を知るとかではなく、ただ、受け止めようと思う。それがもう少し生きさせてもらっているということそのものだということなのだろう。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。