医者だから案件 [カンファレンス]
この仕事をしていると、「医者だから案件」にちょくちょく遭遇する。病院に勤めているのに後ろ盾を感じないこともある。気がつけばちょっとヤバいことをさせられる流れになっていることすらある。
最近はコロナが診療のど真ん中にやってきているが、自分は個人的に、ある程度のことを病院で決めるべきと考えている。なぜなら誰にもわからないから統計をとることでわかってくることがあるから。
実際病院が決めているのは〜の時はこの検査 ○○検査が陰性ならOK必ず肺炎があるかチェックなど”恐怖”に対する対策だけなのだ。これでは対策はできても評価ができていない。
これぐらいの症状なら陽性率はこれくらい。だとかPCRとNEARはこれほど違うとか、どういう方針でやると外来をすり抜けて入院になるか?とかだが、実際はその辺は「医師の判断」で決めるんでしょ?となっている。多分そういところがすり抜けを作る1つの要因になっていると思うし、すり抜けてもその原因を個別で考えるしかなくなるので、結局対策もできないのだ。
感染症にはマスで考えないといけない部分が大きい個で考えても答えはでないのだ。自分もう少し自分の声に耳を傾けるヒトが増えるまで我慢することにする。
911なのに [カンファレンス]
症例検討(雑誌掲載症例) [カンファレンス]
多様性?日本人にはきびしい? [カンファレンス]
今回のオリンピックのテーマは多様性だったらしい。自分は開会式で「あれ?並ばないの?」と思ったあとに「まぁいまの時代こんなもんか。」と思い直した。こういう意識の変換が必要になってくるのだろう。
(1年半ぶり、、)
ある知り合いの死 [カンファレンス]
あまりにもわかりきっていることなのに、死を受け入れるのは容易ではない。生まれたときからわかっているはずのことなのに、
突然事故死を聞いて彼との思い出があるわけでもないのに悲しい気持ちになる。それは”失う”事への悲しみなのか怖れなのか?
心が一度は通じ合ったひと、芸能人、新聞の片隅で見つけた人、家族、会ったことがあろうとなかろうと、その人のその人たる所以が自分のなかにあるかないかで失ったものの大きさが変わってくる。
小学校2年生のときの隣のクラスだった高原君会ったこともなかったけれど当時の自分はその死をなんとか受け止めようとした。
高校のとき琵琶湖で死んだ吉本くん。スイミングスクールで一緒だった田中義治、木村洋二、大学の時の森脇君後輩の女の子、三橋君。高校同窓生の坂さん、彼らの死を考えればいつも自分は彼らの死を自分の延長上にある死を結びつけることから避けようとしてきたように思う。それは、多く亡くした患者さんたちに対してもそうかもしれない。それはいつかすぐかもしれない明日にでも自分に確実に訪れるものを拒否しようとしているのかもしれない。自分の母の死ですら。
しかし今回多くを語ったこともなく、ただ同じところで働いていたという彼の死。それを自分はちゃんと考えてみようと思っている。だれの死でも自分の並列にあるはずなのだが、そのことから逃げずにいようと思う。その意味を知るとかではなく、ただ、受け止めようと思う。それがもう少し生きさせてもらっているということそのものだということなのだろう。