フラウニーとズーイ
フラウニーが彼を会うところくらいまでは普通の恋愛小説から少しズレ始めるほどで内容はつかみやすかったのだが、ズーイの話になってからは表現はよりウィットに富んできて、知らない単語が増えてきて、知らないヒトの言葉が引用される。まるでランボーの詩がながーく続いているようだ。
砧公園
そして自分の語彙力のなさを痛感させられるのだ。おそらくこれを簡略に言えは困難だろうと自己翻訳してみると何とも平べったい文章となり小説というジャンルからはずれてしまうのを感じる。そして自分という人間がヒトより思慮深いと感じていたのは幻想だったのではないかとも思ってしまう。みんなこんな複雑な思考を抱えながらも、それらをペルソナとやらの中にしまいこんでいるのだろか?それで、浮気されても気づかされなけりゃいい。なんて平べったりステレオタイプ的なことをはばからず口にするのだろうか?
ではフラウニーなら彼氏の浮気に対してどのように発言するのだろうか?もちろん一般化などできない。だとすればステレオ的発言はただのコミュニケーション手段で、それを言う側も聞く側も承知で楽しんでいるのだろうか?
2021-02-02 19:53
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