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身体所見の考え方の変貌 [今日話したこと]

今日話したこと。身体所見について、自分は臨床カンファレンスなどで身体所見で脾腫がありますと言った人に「それはエコーをやる前にわかったのですか?」などと意地悪な質問をよくするが、たいてい答えは「いえ、あとです。」(笑)となります。自分も腹部エコーをしているとき必ず脾腫があるか身体所見で確かめてからみるようにしていたが、これがなかなか難しい。打診だと少し客観的で、胸郭が大きな人は横隔膜が少しせり上がっているとか、やせている人は感度が高いとか、背側まで打診をすれば特異度が高いとかいろいろやってみたが、身体所見で脾腫を断定することは決して出来なかった。エビデンス的には50%とあるが、結局超音波などで確かめる必要があるのに、身体所見をとる意味はあるのだろうか?少なくとも超音波がある環境ではないのではないだろうか?CTなど侵襲的な検査までしないとわからなかったものは別としても、侵襲ゼロの超音波が簡単にできるようになり、身体所見の意味そのものもかわってきたように思う。極端に言えば、超音波で確実にわかるものは身体所見をとる意味がない。ということになる。それよりは病歴からどの身体所見が必要か?それはみるだけでわかるのか?聞く必要があるのか、さわったり動かさないとわからないのか?超音波の方がすぐれているのか?で考える必要がある。その上、経過を追うために(毎日の回診の時など)有用なものはなにか?で考える事になる。また知っていたら気づいて入り口になるものもある。今思い出すものだと、視てわかるもの、爪のなかでも、化学療法を繰り返している人、スプーンネイル、ばち指は臨床的に意味がつよい。この前循環器の先生が首がぴくぴく動いていたからといっていたARも入り口になる身体所見ではないだろうか?また診断に特異的なものとしては心内膜炎のChaing murmur 胸膜炎の 体位変化で変化する雑音。 肺の繊維化を示すlate clackle、ホールパイク試験、神経学的所見などが挙げられる。経過をみるものとして代表的なものは頸静脈の観察と考える。今日は眠いのでこれくらいにしておく。


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